壁のほうへ
その部屋では、置いたものが日に五センチほど北の壁へ寄る。床は水平で、傾いてはいない。私は毎朝、机を元へ戻している。
その部屋では、置いたものが日に五センチほど北の壁へ寄る。床は水平で、傾いてはいない。私は毎朝、机を元へ戻している。
同時翻訳の設定に、言いよどみを再現するかどうかの項目がある。既定は「訳さない」。だから向こうに届く私は、いつも即答している。
貸したままだったタブレットが、宅配で返ってきた。電源を入れると、文字を打つ前から、候補が上から順に並んだ。
父の代からの分銅を検めると、どれも目方が足りなかった。四十年、この店は客に渡す量を少しずつ減らしていたことになる。誰も不正をしていない。
同じ家への行き方を、夫と妻が別々に教えてくれた。目印がひとつも重なっていない。私は二枚のメモを持って、坂の下に立っている。
実家の庭で撮った写真は、四十年ぶんが同じ位置から撮られていた。撮った者はみな別々で、そのことを誰も決めていない。
母の台所の引き出しには、四十年ぶんの買い物のメモが束で入っていた。品名はどれも極端に略してある。一枚だけ、すべてを略さずに書いたものがあった。
雪の朝、屋根を見れば、その家が起きているかどうかが分かる。篤は配達の順路を十分ずらした。三沢の家の屋根だけが、いつまでも白いままだった。
十九年会っていない妹に、家の鍵を送ろうと思った。鍵屋は、この鍵から複製は作れないと言う。減った鍵からは、減った鍵しか生まれないからだった。
娘は上がってすぐ、居間の窓を開けた。何も言われてはいない。それから私は、自分の家の匂いを嗅ぐ方法を探しはじめた。
亜希と会う三時間前、佐和は淡い青のリネンシャツを買う。新品を今日のために選んだと思われないよう、紙袋から出したシャツへ、一度着たぶんの皺を作り始める。
公園でパン屑を拾っていた鳩は、子どもに首振りを真似される。だが鳩の頭は、歩くあいだ景色に対して止まっている。間違った真似を直すため、鳩は餌を離れて歩き始める。
スケッチブックに人が一人もいないと小峰に指摘され、私は横顔なら描けると言った。小峰はすぐ椅子を窓際へ運び、右を向いて座る。
千夏の鉢植えには、卵ほどの青い桃が一つある。嘘を聞くと、実はそれを言った人の側だけへ膨らむ。二か月ぶりに訪ねてきた裕生は、桃を挟んで千夏の向かいに座る。
花火のあと、三谷の青い敷物を三人で片づける。三谷が取りに行くはずの四隅目は、ひとりでに持ち上がった。
祭りの夕刻、お秋は友人二人を二階へ招き、投扇興を始める。飽きたと言って賞品に出したのは、ひと月前から誰にも触らせなかった紫の扇だった。
あなたは桃を皮ごと食べ、妹の私に剥きすぎだと言う。台所には、あなたの妻と十歳の娘、それから箱に残った三つの桃がある。
半年ぶりに家族が揃った午後、三十六歳の浩紀は母の膝へ頭を載せた。耳かきを探す母の周りで、二人のきょうだいと、妻と、七歳の娘がそれぞれ違うことを言い始める。
三度勝負のあっち向いてほいに負けた冬真は、眉へ一本だけ線を剃られることになった。右を選ぶ学に、健吾だけが左でいいと言い張る。
同窓会へ出かける母は、二十八年前の青いワンピースを選んだ。背中のファスナーは七センチ閉まらない。それでも着替えようとしない母に、実家へ戻ったばかりの娘は自分の服を差し出す。
蓮は、妻の伊織が離婚を決めた瞬間を、自分の記憶として持って目を覚ます。七年続けた夫婦間の記憶同期は、事実を同じにしても答えまでは揃えない。
母が亡くなった夜、三人の子は総入れ歯を年齢順に口へ入れ、母の口述を録音する。最後の確認まで、全員が手順を知っている。
実家を畳む荷造りのさなか、娘が落とした箱で母の足の爪に黒い痕ができる。痕が先端へ出るまで、娘は月に一度、母の爪を切りに通う。
小さな雄のコウイカは、左側の雌へ求愛の縞を見せながら、右側の大きな雄には雌の斑を見せる。
喜代の傘寿を祝うため、家族五人は霧の山へ登った。雲が切れた瞬間、全員が自分の影の頭に虹色の輪を見る。
海辺の貸別荘で、直は昔の恋人に日焼け止めを塗ってもらう。数分後、背中には彼の指が書いた一文字が盛り上がっていた。
業績を奪った元同僚の姓を、成瀬は偽の動詞として国語辞典へ忍ばせた。罠は盗用者を捉えるが、その語を読者が使い始める。
嵐で折れた後檣が船腹を打ち始める。その折れ口に青い火が立つと、船員たちは聖エルモの加護だと膝をついた。
私たちの群れは、網を持って現れる一つの顔を親から子へ教えてきた。春に巣立った細尾だけが、その顔の裏側を見る。
洪水の翌朝、渡し守のいとは、泥に座った船と、水のない向こう岸を見つける。川は桑畑を裂き、別の場所を流れていた。
種子保存庫に残る在来大豆、水越黒は十二粒。二十八年ぶりの生存検査を先送りしてきた三田は、ついに一粒目へ刃を入れる。
視野検査の白い半球を覗き、藤野は光が見えたときだけボタンを押すよう言われる。職場へ戻るには、見えなかった回数を少なくしたい。
三人暮らしの皿洗いを決めるため、赤・青・白のサイコロを振る。赤は青に勝ち、青は白に勝った。ところが白は赤に勝つ。
ベランダのハチクに、花びらのない花がついた。二十二年前、兄と争って実家の竹林から分けた一株だった。同じ朝、百キロ離れた竹林から兄が電話をかけてくる。
石垣に棲む一匹は、ほかのカタツムリと同じように見えた。ただ、殻の口と生殖口が左右反対にある。雨の夜、道の向こうから新しい粘液の跡が伸びてくる。
庚申の夜、人が眠ると三尸の虫が天へ昇り、その罪を告げるという。弟を川で死なせた佐平が、六十日ごとの夜を一度も眠らず明かしていると知り、おつるは同じ座へ加わる。
理科の宿題にするため、わたしはイチョウの葉を紙に挟んだ。一本が二本、二本が四本へ分かれる葉脈を数えるつもりだった。三日後、細い線は葉の縁を越えていた。
ユーフォニアムの杏とトロンボーンの夏生が、完全五度を伸ばして吹く。二人しかいない音楽室で、一オクターブ下の低い音が鳴った。録音には残らず、聞こえる人と聞こえない人がいる音だった。
長く使わない流し台では、排水管の水が蒸発する。臭気や虫を防ぐため、空室には月に一度、水を足さなければならない。七〇二号室を除いて。
閉店後、私は八台の乾燥機から糸屑を剥がす。白いタオル、紺の制服、赤い毛布。持ち主の帰ったあと、それぞれの布から抜けたものだけが金網に残っている。
鳩が出たまま戻らない時計を抱え、吉川は二つに分かれた時計店を訪ねる。機械式は右、電池式は左。だがその時計は、針を電池で動かし、鳩を歯車で出していた。
八月、奈緒は穂の出る前の田を刈る。米を作るためではない。正月に神社へ掛ける注連縄、その青い藁だけを取るためだ。今年かぎりのつもりで引き受けた田には、刈らずに残す一列があった。
三十一年つづけた時計店を、志津と邦夫は二つに分けることにした。棚も工具も顧客台帳も分けられる。だが、店の奥で歩調を合わせる二つの振り子時計は、一枚の背板に掛かっていた。
山あいの三集落へ送れる避難文は、四十七字まで。自動要約機が作った文面からは、住民が実際に使う古い小地名がすべて消えていた。
川魚が死んだ翌朝、採水瓶の水は基準値内だった。十年前にも同じ結果へ署名した水質調査員の梨木は、石の下に棲む虫を集めはじめる。
海で育った一尾の鮭が、産卵のため川へ戻る。頼れるのは、幼い日に覚えた水の匂いだけだった。だが河口には、記憶にない水が流れ込んでいる。
節気ごとに、家々を回って和時計の割駒を動かす。夏の昼は一刻が長く、冬は短い。ある家の時計だけ、いつも少し狂っている。誰かが、駒を動かしている。
道場の床には、白くなっている場所がある。踏み込みで色が抜けたのだと先輩が言った。新井の足は、そこまで届かない。三年かけて、届くかどうかの話である。
工場を出て、そのまま帰ると眠れない。だから七時から十時まで、国道沿いのファミリーレストランにいる。十一年、そうしている。ある朝、窓際の席に妻が座っていた。
峠から村へ下りる道は、七つ曲がっている。まっすぐにできるはずだ、と新吉は言った。ではなぜ曲がっているのか。一つめから順に、村の者に訊いてまわることになった。
同じ町の出身だと分かってから、荒木と話すのが少し楽になった。ある日、同僚に言われる。「杉本さん、あの人と喋るときだけ声が違うよ」。それから、うまく話せなくなった。
定年の坂田さんに贈る寄せ書き。最初に回ってきた野中さんが、真ん中に、太いマジックで、大きく書いた。残り八人ぶんの場所がない。休憩室で、三人の緊急会議がはじまった。
押し入れの奥の壁に、白いものが吹いていた。指でこすって舐めると、海の味がした。海からは、電車で三時間ある。
喉を失った父のために、過去の録音から声を作りなおすことになった。三十分ぶんの素材が要る。実家のテープを漁って、真弓はひとつのことに気づく。
寝る前に鍵を確かめる。確かめたのに、確かめた記憶だけが薄い。だからもう一度見に行く。回数は、月ごとに増えていった。
澄子の家には、他人のものが溜まっている。傘、皿、子どもの長靴。どれも借りたもので、どれも返していない。息子が片付けに来た日、澄子は一つだけ持って出かけた。
夫が浴室で亡くなった。事故として処理されようとしている。保険調査員の宮下は、三度目の聞き取りに来ている。今日で終わりにするつもりだった。
七十四になる男は、毎朝、市立図書館で新聞の縮刷版を読む。自分の生まれた日から、一日ずつ。四年かけて、まだ昭和四十一年の秋にいる。
その町では、ある朝から詫び状が届くようになった。宛先は本人、差出人も本人。書いた覚えのない字で、誰にも言っていない過去のあやまちが、ひとつだけ詫びてある。
別れたあとも、通販の届け先は彼の部屋のままだった。荷物が届くたび、彼から一行だけ連絡が来る。宅配ボックスの番号と、暗証番号の四桁。
和泉屋に仕える二人の摺師。清七の摺る空の暈しは、誰にも真似ができない。同じ版、同じ絵の具、同じ紙。それでも伊之助の刷り上がりは、清七のそれにならない。
お父さんは階段の三段目をふまない。お母さんは火曜の夜だけ長電話をする。わたしはうちの決まりを見つけては、ノートに書きためている。全部で四十七こ。
毎朝、きみたちは坂の下で待ち合わせ、自転車を押して上がった。ある日きみが口をすべらせ、それは彼の耳に届いた。謝る機会は、たっぷり四か月あった。
桜台交番に、半年で十七件の落とし物を届けた男がいる。品目はばらばら、拾得場所もばらばら。ただ一点、拾った時刻だけが、いつも午前六時十分だった。
「いつもの」と言われて十五年。マスターは、その最初の一杯を聞き逃していた。以来ずっと、違うものを出しつづけている。ある朝、常連客が言った。「今日はいつもじゃないのを」
美緒は歩道橋の踊り場で、古いノートから「さよら」を切り抜いた。幼い頃に香奈と作った言葉を、香奈が別の友人へ使ったからだ。
六週間ぶりに直哉を迎えた啓は、水族館と映画の券を用意していた。ところが直哉は、最初の入口で足を止める。
凛が部屋を出ていく夕方、遥は約束より早く帰ってしまう。顔を合わせないよう建物の前を通り過ぎ、もう一度窓の下へ戻ると、明かりの中に影が二つあった。
一年離れて、それでも会いたければ来てほしい。明里にそう言われた奈央は、地球で一年、船内で十二日が過ぎる周回便の乗船券を買う。
夜の公園で一人きりの女は、片方だけでは動かない遊具の前にいた。もう一人の女が来るまでは。
牟呂村に御札が降ったという騒ぎが東海道を渡る夜、見物に来た私は、おかめの面をかぶせられる。踊りの列から伸びた手が、私を「お夏」と呼んだ。
三人で入ったカラオケで、美和は差し出されたマイクを断る。今日は聴く日だと言いながら、彼女は喉飴を舐め、蜂蜜入りの飲み物を頼み、友人の歌のキーを下げる。
海水浴の帰り、四人は浜の休憩所でババ抜きを始める。負けた者は服のまま海へ入ることになり、一日じゅう水を避けていた真央の手にジョーカーが渡った。
こはるの名前は、右の耳の後ろに結ばれている。名前のあとにはいつも用事がつくので、こはるは今日、それをほどいて捨てると母に言う。
伊吹が目を覚ますと、昨夜剥がした壁紙が壁へ戻っていた。床には剥がした紙も残っている。彼はもう一度、端へ爪を入れる。
越してきた住宅地には、古い回覧板が回っていた。名簿の順に判を押し、次の家へ。ただ、その「次の家」には、誰も住んでいない。
人の絶えた観測基地で、気象を記録しつづける一台の装置がいた。誰も読まない報告書を、それでも毎朝、彼は書いていた。
駅裏の小さな定食屋。亡き妻のだし巻き卵を、客はもう一度だけ食べたいと言った。厨房に立つ寡黙な店主の、金曜日の話。