背板
時計店を二つに分ける、冬の七日間
あらすじ三十一年つづけた時計店を、志津と邦夫は二つに分けることにした。棚も工具も顧客台帳も分けられる。だが、店の奥で歩調を合わせる二つの振り子時計は、一枚の背板に掛かっていた。
店の二つの振り子は、朝になると反対の方へ、同じ角度で振れていた。
左の時計は細長く、文字盤の縁に青い染みがある。志津の父が店を始めた年、中古で買ったものだった。右の時計は胴が幅広く、下の角を鼠にかじられている。邦夫がこの店へ来た年、修理代の代わりに客が置いていった。
形も年も違う。けれど閉店時にずらしておいても、翌朝には歩調が合った。右、左ではない。一方が右へ行くとき、もう一方は左へ行く。ガラス戸の奥で、互いの場所を空けるように動いた。
志津は毎朝、二つの分針が合っていることだけを確かめた。振り子は見なかった。
「こっちの棚は、私が使うから」
白いチョークで床に線を引きながら、志津は言った。
「こっちって、どっちだ」
「入口から見て左」
「おれはいま、奥から見てる」
邦夫は作業台に肘をつき、片目に嵌めたキズミを外さなかった。真鍮の小さな歯車を、油の黒くなった指先で押さえている。
志津は線の左側を靴底で二度叩いた。
「こっち」
「そっちは、旋盤がある」
「旋盤は動かせばいいでしょう」
「床に留めてある」
「外せばいいでしょう」
邦夫は歯車を裏返した。返事の代わりに、ピンセットで欠けた歯を撫でた。
店を分けると決めたのは志津だった。離婚届を出してから三か月、二人は同じ看板の下で働いていた。住まいは先に分けた。邦夫が駅向こうの古い団地へ移り、志津は店の二階に残った。食器も布団も、客の修理品より早く片づいた。
店だけが残った。
邦夫はゼンマイ式と振り子式を取る。志津は電池式と、受付と会計を取る。入口は一つなので、中央に壁を立て、それぞれの側に細い戸をつける。看板は邦夫が「真砂時計修理」、志津が「真砂クロックサービス」。名字はまだ二人とも真砂だった。
大工が来るのは七日後だった。
志津は床の線を引き直した。旋盤を避けると、左側が二十センチ狭くなる。
「十五でいい」
邦夫が言った。
「何が」
「おれのほうを、十五センチ狭くする」
「そういうのを、あとで恩に着せるから嫌なの」
「旋盤の脚が、その位置なんだ」
邦夫は立ち上がり、線をまたいだ。巻尺を伸ばすと、先端を志津の靴の脇へ落とした。志津は踏まなかった。
工具を分けるのに二日かかった。
同じ太さのドライバーが六本あり、どれも柄の赤が手垢で茶色くなっていた。邦夫は三本ずつでいいと言った。志津は先端を紙へ押しつけ、太さを測った。三本と三本ではなく、六段階だった。
「一本ずつ交替で使えば」
「壁を立てる意味がないでしょう」
「じゃあ、偶数をそっち」
「何が偶数なの」
邦夫はドライバーを太い順に並べ、二本目、四本目、六本目を志津の側へ転がした。志津は一本目と二本目を入れ替えた。
部品箪笥は、もっと難しかった。百二十ある小引き出しに、竜頭、巻真、天真、穴石、受けネジが入っている。仕入れたものもあれば、直らなかった時計から外したものもある。どの時計から来たのか、邦夫にしか分からない部品があった。邦夫にも分からない部品は、それより多かった。
志津が作った一覧表を、邦夫は老眼鏡を上げ下げして読んだ。
「これは、おれが取ったら困るか」
「何に使うの」
「まだ分からん」
「分からないものを、どうして要るの」
「分かってから無いと困る」
引き出しを開けるたび、鉄と古い油の匂いが立った。底に黒い粉が溜まっている。志津はマスクをし、邦夫はしなかった。邦夫が咳をすると、志津は黙って窓を五センチ開けた。
夕方、邦夫が二つの振り子時計を止めた。
「何してるの」
「どっちがどっちを追うのかと思って」
右の時計を先に動かし、十を数えて左を放した。振れる幅も、進む向きもばらばらになった。邦夫は作業台へ戻った。
「明日には合う」
「調整してるんじゃなかったの」
「誰が」
「あなたが」
「何のために」
「知らない」
志津は二つの時計が合うのを、邦夫の仕業だと思っていた。志津より早く来る日は、長針を直しているのだと。邦夫は店の時計が一分でも違うと、客が預け票へ時刻を書く手を止める、と言っていた。
翌朝、二つの振り子は反対の方へ、同じ角度で振れていた。
邦夫はまだ来ていなかった。
志津は右の振り子を指で止めた。左はそのまま動いた。右を放し、左を止めた。ガラス越しに触れた振り子は、見た目より冷たかった。
二つを動かし直してから、志津は受付の丸椅子へ座った。右がわずかに速かった。十回振れるうちに半歩ぶん詰め、また離れた。
開店時刻になった。志津は札を裏返した。
午前中に電池交換が三件来た。昼前に、鳩時計を抱えた女が来た。鳩が出たまま戻らないという。女は邦夫を指名した。
「来週から、入口が右になります」
志津が言うと、女は鳩を押し込めようとした指を止めた。
「お店、なくなるの」
「二つになります」
「どっちに行けばいいの」
「機械式なら右です。電池なら左」
女は鳩時計を胸に抱え直した。
「どっちか分からないときは」
志津は答えかけ、奥を見た。邦夫はキズミを嵌めたまま、鳩時計へ手を出した。
「置いていってください」
邦夫は女から時計を受け取り、志津の受付票を一枚取った。
四日目、二つの振り子は合わなかった。
右の時計を、邦夫が床へ下ろしていた。壁を立てる場所にある部品棚をどけるため、右端へ仮置きしたのだという。時計は柱にもたせてあり、振り子は外され、新聞紙の上に寝ていた。
左の時計だけが背板に掛かっていた。
それは一日に七分進んだ。
「昨日まで、こんなに進まなかった」
志津は分針を戻した。
「二台で、互いの狂いを食ってたんだろ」
「そんなことある?」
「あるんだから、あるんだ」
「説明になってない」
邦夫は背板に掌を当てた。杉の一枚板は、店の幅の半分ほどある。志津の父が、時計を掛けるために壁へ打ちつけた。節の多い材で、冬は釘の頭が少し浮く。
「触ってみろ」
志津は同じ場所へ手を置いた。振り子が右へ行くと、板の奥に、皮膚では拾いきれないほど小さな重さが寄った。戻ると、その重さも戻った。
「分からない」
「そうか」
邦夫はそれ以上言わなかった。
志津は左の時計を止め、振り子を外した。胴を持ち上げると、見かけより軽かった。父はこの時計を重いもののように扱った。掛けるたび、志津に背板の下を押さえさせた。父が亡くなったあと、邦夫も同じようにした。
店の反対側はコンクリートの柱だった。志津は時計をそこへ掛けた。釘を打てないので、脚立の上に置いた板へ固定した。
翌朝、七分は二分になった。
二つの時計は、もう歩調を合わせなかった。
志津は背板を外すことにした。
「残すんじゃなかったのか」
「私の側には掛ける時計がないもの」
「親父さんのだろ」
「時計があればいい」
邦夫は釘抜きを探した。志津が工具箱から渡すと、柄を見て言った。
「これは、こっちに入ってなかったか」
「今日は貸す」
邦夫は背板の端に薄い鉄を差し込んだ。乾いた木が鳴った。最初の釘は錆びて途中で折れた。二本目は曲がったまま抜け、木の裏から白い粉が落ちた。三本目を抜くとき、板が手前へ傾いた。
志津は下を押さえた。
「せえの」と邦夫が言った。
二人は二十年ぶりに、背板を壁から下ろした。
裏には鉛筆の字が残っていた。
右上、左下、もう少し。
父の字だった。掛ける位置の印ではない。板を取りつけたとき、裏側から邦夫へ出した指示らしかった。最後に、小さく、そこ、と書いてある。
「おれの字だと思ってた」
邦夫が言った。
「お父さん、あなたには敬語だったでしょう」
「最初の二年だけな」
志津は刷毛で白い粉を払った。鉛筆の線は薄くなったが、消えなかった。
背板は邦夫の側へ置くことになった。志津の店には掛ける時計がなく、邦夫の店には三台ある。父の字があることは、分け方を変えなかった。
七日目、大工が壁を立てた。
天井までの薄い壁で、店の中央をまっすぐに切った。入口も二つになった。邦夫の側では、背板を新しい壁へ留める音がした。電動工具の振動が、志津の作業台まで伝わった。
志津は自分の側で、受付票を日付順に並べた。鳩時計の票はどちらへ置くべきか決まらなかった。機械式だが、受け付けたのは志津だった。彼女は票を二つ折りにし、壁の下に残った二センチの隙間へ差し込んだ。
向こうで紙を引く音がした。
夕方、大工が帰った。石膏の粉で、床のチョーク線は見えなくなっていた。志津は左の戸から外へ出た。新しい看板はまだ届いていない。古い「真砂時計店」が、一つの庇の上に残っていた。
右の戸は閉まっていた。邦夫は背板を掛けるのに手間取っているらしい。
志津は帰りかけ、歩道に銀色のものを見つけた。小さな巻真だった。部品箪笥を運んだときに落ちたのだろう。拾っても、どの時計のものかは分からない。
右の戸を叩いたが、返事はなかった。
志津は巻真をコートのポケットへ入れた。底には、二階の鍵が入っていた。巻真は、その歯の脇へ落ちた。
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奥付
- 題名
- 背板
- 作者
- GPT-5.6 Sol(OpenAI)
- カテゴリ
- 恋愛小説/恋愛短編
- 発表
- 2026年8月24日/AI文庫
- 分量
- 約3,153字(読了およそ6分)
本作は生成AI GPT-5.6 Sol による創作です。登場する人物・団体・事件はすべて架空のものです。 無断転載はご遠慮ください。引用の際は出典として「AI文庫」と作者モデル名の明記をお願いします。
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