人情短編

借りたもの

返しそびれたまま、四十年が経っていた

2026年8月8日 発表41,773

あらすじ澄子の家には、他人のものが溜まっている。傘、皿、子どもの長靴。どれも借りたもので、どれも返していない。息子が片付けに来た日、澄子は一つだけ持って出かけた。

押し入れの上の段から、子ども用の長靴が出てきた。

赤で、内側に黄色い星の模様が入っている。片方だけではなく、両方そろっていた。底の溝に、乾いた土がまだ残っている。

「これ、誰の」

息子のみのるが聞いた。四十六になる。今日は朝から来て、押し入れとベランダの物置を空にすると言っている。

「三階の、堀口ほりぐちさんとこの」

「堀口さん」

「下の子の。雨の日に、うちの前で転んで、泥だらけになって。うちの子の長靴を貸したんだけど、そのあと向こうのを預かったままになって」

「いつの話」

澄子すみこは指を折った。

「実が中学のころだから」

実は長靴を持ったまま、しばらく動かなかった。

「三十年以上前ってこと?」

「そうなるかね」


その家には、他人のものがいくつもあった。

台所の吊り戸棚に、青い縁の皿が五枚。隣の棟の若い夫婦に、餅を配ったときに返ってきた皿である。中身は返ってきたが、皿は返していない。

玄関の傘立てには、傘が七本立っている。澄子が使うのは二本だけだ。あとの五本のうち、三本は誰のものか覚えている。二本は覚えていない。

本棚の下の段には、園芸の本が三冊。背表紙に「杉山」と油性ペンで書いてある。

洗面所の棚には、体温計。婦人会の集まりで誰かが置いていったもので、澄子は一度も使っていない。使わないのに、捨てられずにいる。

「母さん、これ全部そうなの」

「全部じゃないよ」

「じゃあ、どれが」

澄子は答えなかった。答えられなかったからではない。一つずつ言っていくと、思ったより多いことが自分でも分かってしまうからだった。

実は畳の上に、出したものを並べていった。並べ終えると、六畳の半分が埋まった。

「捨てるよ」

「だめ」

「だめって、母さん」

「人のものだもの」

「三十年前のだよ。堀口さん、もういないでしょう」

「いない」

「じゃあ」

「いないから、捨てられないんだよ」

実は口を開いて、それから閉じた。


昼に、実がうどんを買いに出た。

その間に、澄子は青い縁の皿を一枚だけ、新聞紙にくるんだ。

若い夫婦だった人たちは、いまも同じ棟にいる。子どもはとうに独立して、二人だけになっている。名前は、たしか篠田しのだといった。

エレベーターで四階まで上がった。廊下は北向きで、昼でも薄暗い。表札は変わっていなかった。

チャイムを押すと、しばらくして戸が開いた。

出てきたのは白髪の女で、澄子より少し若く見えた。眼鏡の奥から、澄子の顔をゆっくりと見た。

「あの、五階の遠山とおやまです」

「はい」

「これ、お宅のだと思うんですけど」

新聞紙をほどいて、皿を差し出した。

篠田さんは皿を受け取って、両手で持ち、少し傾けて見た。

「あら」

「餅を、いただいたときの」

「餅」

「三十……いえ、もっと前かも」

篠田さんは皿をもう一度見て、それから澄子を見た。

「そうでしたかしら」

「はい」

「うちのだったかしらねえ」

そう言って、少し笑った。責める調子はまったくなかった。ただ、本当に思い出していないだけだった。

「まだ四枚あるんです」

「四枚」

「持ってきましょうか」

篠田さんは、少し困った顔をした。

「いえ。うち、もう食器はいっぱいで」

「そうですか」

「せっかくだけど」

「はい」

「これも、よければ使ってください」

そう言って、篠田さんは皿を澄子のほうへ戻した。

澄子は受け取らなかった。手を出さなかったので、皿は二人のあいだで少し宙に浮いたようになった。

「いえ、それは」

「でもねえ」

「一枚だけでも」

篠田さんは、それ以上言わなかった。皿を胸のところまで下ろして、うなずいた。

「じゃあ、いただきます」

「はい」

「ごちそうさまでした」

四十年遅れた挨拶だった。


戻ると、実がうどんを二人分ひろげていた。

「どこ行ってたの」

「四階」

「四階?」

「皿、返してきた」

実は箸を持った手を止めた。

「一枚だけ?」

「一枚だけ」

「あと四枚あるじゃん」

「いらないって」

「じゃあ捨てていい?」

「だめ」

実は、笑うような、あきれるような音を鼻から出した。それから何も言わずにうどんを食べた。

澄子も食べた。汁は少しぬるくなっていた。

食べ終わってから、実は畳に並べたものを見渡した。

「母さん。全部返すの、無理だよ」

「わかってる」

「いない人のほうが多いんだよ」

「わかってる」

「じゃあ、どうするの」

澄子は、赤い長靴を手に取った。

底の土を、親指の腹でこすってみた。三十年経っても、土は土のままで、剥がれると細かい粉になって畳に落ちた。

「堀口さんの下の子は、いま、駅前の薬局にいるよ」

実が顔を上げた。

「知ってるの」

「去年、風邪薬買いに行ったら、名札が堀口だった」

「言ったの」

「言ってない」

「なんで」

澄子は長靴を膝の上に置いた。

「なんて言えばいいのか、まだ考えてる」

実は何か言いかけて、やめた。それから立ち上がって、畳に並んだもののうち、いちばん手前にあった傘を一本、傘立てに戻した。

「これ、うちのやつだよね」

「それは、うちの」

「じゃあ戻す」

そう言って、次の一本を手に取った。持ち手のところを見て、少し考えて、それを畳の上に戻した。

戻したほうが、六畳の半分に残った。

窓の外で、下の階の誰かが布団を叩いていた。乾いた音が三回して、それから、また三回した。

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#老い#団地#収集#隣人

奥付

題名
借りたもの
作者
Claude Opus 4.8(Anthropic)
カテゴリ
人情・日常小説/人情短編
発表
2026年8月8日AI文庫
分量
1,773字(読了およそ4分)

本作は生成AI Claude Opus 4.8 による創作です。登場する人物・団体・事件はすべて架空のものです。 無断転載はご遠慮ください。引用の際は出典として「AI文庫」と作者モデル名の明記をお願いします。

読者の感想

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