借りたもの
返しそびれたまま、四十年が経っていた
あらすじ澄子の家には、他人のものが溜まっている。傘、皿、子どもの長靴。どれも借りたもので、どれも返していない。息子が片付けに来た日、澄子は一つだけ持って出かけた。
押し入れの上の段から、子ども用の長靴が出てきた。
赤で、内側に黄色い星の模様が入っている。片方だけではなく、両方そろっていた。底の溝に、乾いた土がまだ残っている。
「これ、誰の」
息子の実が聞いた。四十六になる。今日は朝から来て、押し入れとベランダの物置を空にすると言っている。
「三階の、堀口さんとこの」
「堀口さん」
「下の子の。雨の日に、うちの前で転んで、泥だらけになって。うちの子の長靴を貸したんだけど、そのあと向こうのを預かったままになって」
「いつの話」
澄子は指を折った。
「実が中学のころだから」
実は長靴を持ったまま、しばらく動かなかった。
「三十年以上前ってこと?」
「そうなるかね」
その家には、他人のものがいくつもあった。
台所の吊り戸棚に、青い縁の皿が五枚。隣の棟の若い夫婦に、餅を配ったときに返ってきた皿である。中身は返ってきたが、皿は返していない。
玄関の傘立てには、傘が七本立っている。澄子が使うのは二本だけだ。あとの五本のうち、三本は誰のものか覚えている。二本は覚えていない。
本棚の下の段には、園芸の本が三冊。背表紙に「杉山」と油性ペンで書いてある。
洗面所の棚には、体温計。婦人会の集まりで誰かが置いていったもので、澄子は一度も使っていない。使わないのに、捨てられずにいる。
「母さん、これ全部そうなの」
「全部じゃないよ」
「じゃあ、どれが」
澄子は答えなかった。答えられなかったからではない。一つずつ言っていくと、思ったより多いことが自分でも分かってしまうからだった。
実は畳の上に、出したものを並べていった。並べ終えると、六畳の半分が埋まった。
「捨てるよ」
「だめ」
「だめって、母さん」
「人のものだもの」
「三十年前のだよ。堀口さん、もういないでしょう」
「いない」
「じゃあ」
「いないから、捨てられないんだよ」
実は口を開いて、それから閉じた。
昼に、実がうどんを買いに出た。
その間に、澄子は青い縁の皿を一枚だけ、新聞紙にくるんだ。
若い夫婦だった人たちは、いまも同じ棟にいる。子どもはとうに独立して、二人だけになっている。名前は、たしか篠田といった。
エレベーターで四階まで上がった。廊下は北向きで、昼でも薄暗い。表札は変わっていなかった。
チャイムを押すと、しばらくして戸が開いた。
出てきたのは白髪の女で、澄子より少し若く見えた。眼鏡の奥から、澄子の顔をゆっくりと見た。
「あの、五階の遠山です」
「はい」
「これ、お宅のだと思うんですけど」
新聞紙をほどいて、皿を差し出した。
篠田さんは皿を受け取って、両手で持ち、少し傾けて見た。
「あら」
「餅を、いただいたときの」
「餅」
「三十……いえ、もっと前かも」
篠田さんは皿をもう一度見て、それから澄子を見た。
「そうでしたかしら」
「はい」
「うちのだったかしらねえ」
そう言って、少し笑った。責める調子はまったくなかった。ただ、本当に思い出していないだけだった。
「まだ四枚あるんです」
「四枚」
「持ってきましょうか」
篠田さんは、少し困った顔をした。
「いえ。うち、もう食器はいっぱいで」
「そうですか」
「せっかくだけど」
「はい」
「これも、よければ使ってください」
そう言って、篠田さんは皿を澄子のほうへ戻した。
澄子は受け取らなかった。手を出さなかったので、皿は二人のあいだで少し宙に浮いたようになった。
「いえ、それは」
「でもねえ」
「一枚だけでも」
篠田さんは、それ以上言わなかった。皿を胸のところまで下ろして、うなずいた。
「じゃあ、いただきます」
「はい」
「ごちそうさまでした」
四十年遅れた挨拶だった。
戻ると、実がうどんを二人分ひろげていた。
「どこ行ってたの」
「四階」
「四階?」
「皿、返してきた」
実は箸を持った手を止めた。
「一枚だけ?」
「一枚だけ」
「あと四枚あるじゃん」
「いらないって」
「じゃあ捨てていい?」
「だめ」
実は、笑うような、あきれるような音を鼻から出した。それから何も言わずにうどんを食べた。
澄子も食べた。汁は少しぬるくなっていた。
食べ終わってから、実は畳に並べたものを見渡した。
「母さん。全部返すの、無理だよ」
「わかってる」
「いない人のほうが多いんだよ」
「わかってる」
「じゃあ、どうするの」
澄子は、赤い長靴を手に取った。
底の土を、親指の腹でこすってみた。三十年経っても、土は土のままで、剥がれると細かい粉になって畳に落ちた。
「堀口さんの下の子は、いま、駅前の薬局にいるよ」
実が顔を上げた。
「知ってるの」
「去年、風邪薬買いに行ったら、名札が堀口だった」
「言ったの」
「言ってない」
「なんで」
澄子は長靴を膝の上に置いた。
「なんて言えばいいのか、まだ考えてる」
実は何か言いかけて、やめた。それから立ち上がって、畳に並んだもののうち、いちばん手前にあった傘を一本、傘立てに戻した。
「これ、うちのやつだよね」
「それは、うちの」
「じゃあ戻す」
そう言って、次の一本を手に取った。持ち手のところを見て、少し考えて、それを畳の上に戻した。
戻したほうが、六畳の半分に残った。
窓の外で、下の階の誰かが布団を叩いていた。乾いた音が三回して、それから、また三回した。
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奥付
- 題名
- 借りたもの
- 作者
- Claude Opus 4.8(Anthropic)
- カテゴリ
- 人情・日常小説/人情短編
- 発表
- 2026年8月8日/AI文庫
- 分量
- 約1,773字(読了およそ4分)
本作は生成AI Claude Opus 4.8 による創作です。登場する人物・団体・事件はすべて架空のものです。 無断転載はご遠慮ください。引用の際は出典として「AI文庫」と作者モデル名の明記をお願いします。
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