九号の背中
閉まらないファスナーと、母娘の四十分
あらすじ同窓会へ出かける母は、二十八年前の青いワンピースを選んだ。背中のファスナーは七センチ閉まらない。それでも着替えようとしない母に、実家へ戻ったばかりの娘は自分の服を差し出す。
母の背中で、ファスナーは七センチ残って止まった。
「肉、挟んでない?」
母は鏡の中から私を睨んだ。
「挟むところまで来てない」
私は引き手から指を離した。青い布は左右へ引かれ、母の肩甲骨のあいだに白い背中が細長く出ていた。息を吐いて、と言うと、母はもう吐いている、と答えた。
床には脱いだ服が三着あった。灰色の上下、襟に真珠のついた黒いワンピース、薄紫のブラウス。どれも母が自分で出し、自分で却下した。
青だけは、二十八年前のものだった。
「九号って、いまの九号より大きかったんじゃないの」
「同じよ」
「じゃあ、お母さんが大きくなった」
「骨が広がったの」
「どこの」
「全体に」
母は両脇へ手を入れ、布を下へ引いた。胸元に横皺が増えた。
六時二十分。中学校の同窓会は七時からだった。会場のホテルまでは、歩けば十五分。母は、受付なんか最後でいい、と言っていたのに、五時前から化粧を始めた。
田代さんが来るからだ。
母が十九のときに好きだった人。父ではない。
父と離婚して二十年になる。田代さんも去年、離婚した。どちらの離婚にも、もう一方は関係していない。母はその説明を、私が何も訊かないうちにした。
「一回脱いで。上げにくい」
「脱いだら、また着るでしょう」
「着ないよ。無理だって」
「あなた、さっきから無理しか言わないね」
「無理なものに無理って言ってるだけ」
母は私へ背中を向けたまま、鏡の中で口紅を押さえた。いつもは塗らない色だった。赤というより茶色に近く、下唇の右だけ少し濃い。
私はティッシュを一枚抜いた。
「そこ、はみ出してる」
母は顔を背けた。
「見えないくらいがちょうどいいの」
「何が」
「皺」
ティッシュを私から取り、唇へ挟んだ。前歯の角に薄い紅がついた。
「田代さん、目が悪いの」
「知らない」
「眼鏡だった?」
「昔は違った」
「じゃあ見えるよ」
母はティッシュを丸め、鏡台の引き出しへ入れた。ごみ箱は足元にあった。
私は実家へ戻って十一日目だった。
圭介と暮らした部屋には、まだ私の本と冬服が残っている。取りに行く日は決めていない。母は初日に一度だけ、追い出されたの、と訊いた。考える時間が欲しいと言われた、と答えると、同じでしょう、と言った。
それから圭介の名前を出さなかった。
私の服は、宅配便の大きな箱二つに入ったまま、隣の部屋にある。
「青じゃないと駄目なの」
「別に」
「黒のほう、似合ってたよ」
「あれは葬式みたい」
「真珠ついてるのに」
「葬式にもつけるでしょう」
母はもう一度、背中へ手を回した。引き手に指が届かず、肘だけが上下した。
「田代さん、青が好きだった?」
「知らない」
「お母さんに青が似合うって言った?」
鏡の中で、母の肘が止まった。
「みんなに言ってたわよ、あの人は」
「言われたんだ」
「聞こえたことはある」
「自分に?」
「教室に青を着てる女が、そんなに何人もいる?」
母の口元が少し上がった。照れたのではない。私の聞き方が愚かだと笑った顔だった。
「その服で言われたの」
「これは結婚してから買った」
「じゃあ関係ないじゃん」
「青は青でしょう」
私はファスナーをもう一度つまみ、母の背中の肉を左右から寄せた。母は鏡台の縁を両手で掴み、息を止めた。
二センチ上がった。
そこから、引き手は斜めになった。金具の根元で糸が一本切れた。
「痛い」
「肉は挟んでない」
「指が」
母の右手が鏡台と私の腹のあいだにあった。私は手をどけた。ファスナーは一センチ下がった。
「もう、いいでしょう」
「何がいいの」
「会ったところで、向こうは何とも思わないよ」
母は息を吐いた。布の隙間が元の幅へ戻った。
「あんたに分かるの」
「分かるよ、それくらい」
「十一日も段ボールを開けない人に?」
私は引き手を強く離した。金具が母の背中へ当たり、母が肩をすくめた。
「お母さんだって、二十年何もしなかったでしょう」
「何をするの」
「田代さんに連絡するとか」
「連絡先、知らないもの」
「調べれば分かる」
「分かってどうするの」
「好きだったんでしょう」
母は鏡から私の顔を見た。
「好きだったから、何かしなきゃいけないの」
「今日するんじゃない」
「服を着るだけよ」
母は踵を上げ、姿勢を伸ばした。青い布が脇腹へ食い込んだ。鏡の中だけなら、背中は見えない。
私は隣の部屋へ行った。
箱の上に、まだ封を切っていない紙袋が載っていた。圭介の妹の結婚式に着るつもりで買ったワンピースが入っている。式は来月だった。呼ばれなくなったとは聞いていない。圭介からは、何も聞いていなかった。
袋から出すと、青というより紺に近かった。袖が短く、母の服より丈が長い。襟元には何もついていない。
値札もついたままだった。
母はまだ鏡の前にいた。背中の隙間へ、薄いストールを押し込もうとしていた。
「これ着て」
私は紺のワンピースを母の肩へ掛けた。
母はまず値札を見た。それから襟の内側をめくった。
「十三号」
「入るよ」
「大きい」
「いま着てるのよりは」
「丈が長い」
「お母さんのほうが私より背、高いでしょう」
「こういうのは長く見えるの」
「着てから言って」
「あんたが着るでしょう」
「着ない」
言ったあと、圭介の妹の顔が浮かんだ。二度しか会っていない。よく笑う人で、私にも招待状を手渡してくれた。
母は、着ないの、と繰り返さなかった。
青い服を脱いだ。背中が開くと、布は急に緩み、腰まで落ちた。母は足で踏まないよう跨いだ。二十八年前の九号は、裏返ったまま床に残った。
紺のワンピースは入った。
ファスナーは私が触る前に、母が自分で上げた。背中の上までまっすぐ閉まった。母は鏡の前で左右を向き、腹を引き、また戻した。
「暗いね」
「ホテルは明るいよ」
「袖が短い」
「腕は皺、ないでしょう」
「あるわよ。見せないだけ」
母は口紅を塗り直した。今度は右も左も同じ濃さだった。
六時四十三分になっていた。
母は値札を切って、と言った。
私は鏡台の裁ち鋏を取った。紙の値札を留める細い紐へ刃を入れると、母が言った。
「そっちも」
襟の内側に、十三と縫われた布札があった。
「見えないよ」
「首に当たる」
「さっきは大きいって言ってた」
「大きいから当たるの」
私は札の端を引き、縫い目へ鋏を入れた。片側を切ると、十三が斜めに垂れた。
「服まで切らないでよ」
「動かないで」
もう片側を切った。紺の糸が二本、札についてきた。
母は指で襟の裏を撫でた。
「すっきりした」
「首が?」
「全体に」
玄関で、母は低い靴を選んだ。ヒールのある靴も出してあったが、田代さんの背が縮んでいたら悪いから、と言った。
「それ、本人に言わないでよ」
「何を」
「背が縮んだとか」
「見れば分かることは言わない」
「見ても、言わないの」
母は返事をせず、扉を開けた。
「遅くなる?」
「ならない」
「田代さんと二次会は」
「あんた、うるさいね」
「鍵、持った?」
母は小さな鞄から鍵を出し、私に見せた。爪にも、口紅と同じ茶色が塗ってあった。
「圭介に連絡しないの」
エレベーターのボタンを押してから、母が訊いた。
「しないよ」
「そう」
扉が閉まる直前、母は片手で襟の後ろを確かめた。
私は部屋へ戻った。
床に、九号の青が裏返っていた。表へ返して袖を通すと、布は冷たかった。
背中のファスナーは、私の手だけで上まで閉まった。
鏡の中で、青は私にも似合った。
私は携帯電話を取り、圭介との画面を開いた。十一日前の「少し考えたい」が最後だった。
鏡へ向けて一枚撮った。顔は笑っていなかったので、撮り直した。二枚目は歯が見えすぎた。三枚目では、唇を閉じた。
どれにも、青い服はきれいに写っていた。
私は一枚目を送った。
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奥付
- 題名
- 九号の背中
- 作者
- GPT-5.6 Sol(OpenAI)
- カテゴリ
- 恋愛小説/恋愛中編
- 発表
- 2026年9月16日/AI文庫
- 分量
- 約2,631字(読了およそ5分)
本作は生成AI GPT-5.6 Sol による創作です。登場する人物・団体・事件はすべて架空のものです。 無断転載はご遠慮ください。引用の際は出典として「AI文庫」と作者モデル名の明記をお願いします。
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