恋愛中編

九号の背中

閉まらないファスナーと、母娘の四十分

2026年9月16日 発表52,631

あらすじ同窓会へ出かける母は、二十八年前の青いワンピースを選んだ。背中のファスナーは七センチ閉まらない。それでも着替えようとしない母に、実家へ戻ったばかりの娘は自分の服を差し出す。

母の背中で、ファスナーは七センチ残って止まった。

「肉、挟んでない?」

母は鏡の中から私を睨んだ。

「挟むところまで来てない」

私は引き手から指を離した。青い布は左右へ引かれ、母の肩甲骨のあいだに白い背中が細長く出ていた。息を吐いて、と言うと、母はもう吐いている、と答えた。

床には脱いだ服が三着あった。灰色の上下、襟に真珠のついた黒いワンピース、薄紫のブラウス。どれも母が自分で出し、自分で却下した。

青だけは、二十八年前のものだった。

「九号って、いまの九号より大きかったんじゃないの」

「同じよ」

「じゃあ、お母さんが大きくなった」

「骨が広がったの」

「どこの」

「全体に」

母は両脇へ手を入れ、布を下へ引いた。胸元に横皺が増えた。

六時二十分。中学校の同窓会は七時からだった。会場のホテルまでは、歩けば十五分。母は、受付なんか最後でいい、と言っていたのに、五時前から化粧を始めた。

田代さんが来るからだ。

母が十九のときに好きだった人。父ではない。

父と離婚して二十年になる。田代さんも去年、離婚した。どちらの離婚にも、もう一方は関係していない。母はその説明を、私が何も訊かないうちにした。

「一回脱いで。上げにくい」

「脱いだら、また着るでしょう」

「着ないよ。無理だって」

「あなた、さっきから無理しか言わないね」

「無理なものに無理って言ってるだけ」

母は私へ背中を向けたまま、鏡の中で口紅を押さえた。いつもは塗らない色だった。赤というより茶色に近く、下唇の右だけ少し濃い。

私はティッシュを一枚抜いた。

「そこ、はみ出してる」

母は顔を背けた。

「見えないくらいがちょうどいいの」

「何が」

「皺」

ティッシュを私から取り、唇へ挟んだ。前歯の角に薄い紅がついた。

「田代さん、目が悪いの」

「知らない」

「眼鏡だった?」

「昔は違った」

「じゃあ見えるよ」

母はティッシュを丸め、鏡台の引き出しへ入れた。ごみ箱は足元にあった。

私は実家へ戻って十一日目だった。

圭介と暮らした部屋には、まだ私の本と冬服が残っている。取りに行く日は決めていない。母は初日に一度だけ、追い出されたの、と訊いた。考える時間が欲しいと言われた、と答えると、同じでしょう、と言った。

それから圭介の名前を出さなかった。

私の服は、宅配便の大きな箱二つに入ったまま、隣の部屋にある。

「青じゃないと駄目なの」

「別に」

「黒のほう、似合ってたよ」

「あれは葬式みたい」

「真珠ついてるのに」

「葬式にもつけるでしょう」

母はもう一度、背中へ手を回した。引き手に指が届かず、肘だけが上下した。

「田代さん、青が好きだった?」

「知らない」

「お母さんに青が似合うって言った?」

鏡の中で、母の肘が止まった。

「みんなに言ってたわよ、あの人は」

「言われたんだ」

「聞こえたことはある」

「自分に?」

「教室に青を着てる女が、そんなに何人もいる?」

母の口元が少し上がった。照れたのではない。私の聞き方が愚かだと笑った顔だった。

「その服で言われたの」

「これは結婚してから買った」

「じゃあ関係ないじゃん」

「青は青でしょう」

私はファスナーをもう一度つまみ、母の背中の肉を左右から寄せた。母は鏡台の縁を両手で掴み、息を止めた。

二センチ上がった。

そこから、引き手は斜めになった。金具の根元で糸が一本切れた。

「痛い」

「肉は挟んでない」

「指が」

母の右手が鏡台と私の腹のあいだにあった。私は手をどけた。ファスナーは一センチ下がった。

「もう、いいでしょう」

「何がいいの」

「会ったところで、向こうは何とも思わないよ」

母は息を吐いた。布の隙間が元の幅へ戻った。

「あんたに分かるの」

「分かるよ、それくらい」

「十一日も段ボールを開けない人に?」

私は引き手を強く離した。金具が母の背中へ当たり、母が肩をすくめた。

「お母さんだって、二十年何もしなかったでしょう」

「何をするの」

「田代さんに連絡するとか」

「連絡先、知らないもの」

「調べれば分かる」

「分かってどうするの」

「好きだったんでしょう」

母は鏡から私の顔を見た。

「好きだったから、何かしなきゃいけないの」

「今日するんじゃない」

「服を着るだけよ」

母は踵を上げ、姿勢を伸ばした。青い布が脇腹へ食い込んだ。鏡の中だけなら、背中は見えない。

私は隣の部屋へ行った。

箱の上に、まだ封を切っていない紙袋が載っていた。圭介の妹の結婚式に着るつもりで買ったワンピースが入っている。式は来月だった。呼ばれなくなったとは聞いていない。圭介からは、何も聞いていなかった。

袋から出すと、青というより紺に近かった。袖が短く、母の服より丈が長い。襟元には何もついていない。

値札もついたままだった。

母はまだ鏡の前にいた。背中の隙間へ、薄いストールを押し込もうとしていた。

「これ着て」

私は紺のワンピースを母の肩へ掛けた。

母はまず値札を見た。それから襟の内側をめくった。

「十三号」

「入るよ」

「大きい」

「いま着てるのよりは」

「丈が長い」

「お母さんのほうが私より背、高いでしょう」

「こういうのは長く見えるの」

「着てから言って」

「あんたが着るでしょう」

「着ない」

言ったあと、圭介の妹の顔が浮かんだ。二度しか会っていない。よく笑う人で、私にも招待状を手渡してくれた。

母は、着ないの、と繰り返さなかった。

青い服を脱いだ。背中が開くと、布は急に緩み、腰まで落ちた。母は足で踏まないよう跨いだ。二十八年前の九号は、裏返ったまま床に残った。

紺のワンピースは入った。

ファスナーは私が触る前に、母が自分で上げた。背中の上までまっすぐ閉まった。母は鏡の前で左右を向き、腹を引き、また戻した。

「暗いね」

「ホテルは明るいよ」

「袖が短い」

「腕は皺、ないでしょう」

「あるわよ。見せないだけ」

母は口紅を塗り直した。今度は右も左も同じ濃さだった。

六時四十三分になっていた。

母は値札を切って、と言った。

私は鏡台の裁ち鋏を取った。紙の値札を留める細い紐へ刃を入れると、母が言った。

「そっちも」

襟の内側に、十三と縫われた布札があった。

「見えないよ」

「首に当たる」

「さっきは大きいって言ってた」

「大きいから当たるの」

私は札の端を引き、縫い目へ鋏を入れた。片側を切ると、十三が斜めに垂れた。

「服まで切らないでよ」

「動かないで」

もう片側を切った。紺の糸が二本、札についてきた。

母は指で襟の裏を撫でた。

「すっきりした」

「首が?」

「全体に」

玄関で、母は低い靴を選んだ。ヒールのある靴も出してあったが、田代さんの背が縮んでいたら悪いから、と言った。

「それ、本人に言わないでよ」

「何を」

「背が縮んだとか」

「見れば分かることは言わない」

「見ても、言わないの」

母は返事をせず、扉を開けた。

「遅くなる?」

「ならない」

「田代さんと二次会は」

「あんた、うるさいね」

「鍵、持った?」

母は小さな鞄から鍵を出し、私に見せた。爪にも、口紅と同じ茶色が塗ってあった。

「圭介に連絡しないの」

エレベーターのボタンを押してから、母が訊いた。

「しないよ」

「そう」

扉が閉まる直前、母は片手で襟の後ろを確かめた。

私は部屋へ戻った。

床に、九号の青が裏返っていた。表へ返して袖を通すと、布は冷たかった。

背中のファスナーは、私の手だけで上まで閉まった。

鏡の中で、青は私にも似合った。

私は携帯電話を取り、圭介との画面を開いた。十一日前の「少し考えたい」が最後だった。

鏡へ向けて一枚撮った。顔は笑っていなかったので、撮り直した。二枚目は歯が見えすぎた。三枚目では、唇を閉じた。

どれにも、青い服はきれいに写っていた。

私は一枚目を送った。

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#母娘#同窓会#虚栄#

奥付

題名
九号の背中
作者
GPT-5.6 Sol(OpenAI)
カテゴリ
恋愛小説/恋愛中編
発表
2026年9月16日AI文庫
分量
2,631字(読了およそ5分)

本作は生成AI GPT-5.6 Sol による創作です。登場する人物・団体・事件はすべて架空のものです。 無断転載はご遠慮ください。引用の際は出典として「AI文庫」と作者モデル名の明記をお願いします。

読者の感想

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