薄緑の下
剥がした壁紙は、朝になると元へ戻った
あらすじ伊吹が目を覚ますと、昨夜剥がした壁紙が壁へ戻っていた。床には剥がした紙も残っている。彼はもう一度、端へ爪を入れる。
剥がしたはずの壁紙が、朝には壁へ戻っていた。
伊吹は寝床から起き上がり、壁へ触れた。
薄緑の紙は壁いっぱいに張られている。昨夜、肩のあたりから床まで剥がした場所にも、皺ひとつなかった。指で押すと、下地の硬さが返ってきた。
剥がした紙は、床に残っていた。
白い裏を上にして丸まり、端に伊吹の爪の跡がついている。持ち上げると、乾いた糊の粉が膝へ落ちた。壁へ重ねても、模様は合わなかった。壁に戻ったほうも、床にあるほうも、昨夜まで同じ一枚だった。
伊吹は理由を考えなかった。
戻った壁紙の端へ爪を入れた。
紙と壁のあいだから、細い空気が入った。手首を引くと、薄緑がゆっくり持ち上がる。最初は小さく、すぐ長くなる音がした。布を裂く音より低く、封筒を開く音より粘った。
途中で手を止める。
剥がれた紙は、伊吹の手の重みで垂れた。壁に残っている部分が引かれ、音の続きを待つように張った。
伊吹はもう一度引いた。
紙は床の近くで横へ裂けた。裏側の白い粉が舞い、鼻の奥へ古い糊の匂いが入った。
昨夜より長く剥がせた。
伊吹は床の紙を、前の紙と一緒に丸めた。押し入れへ入れようとして、やめた。部屋の隅へ立てかけた。
昼には壁の灰色が目についた。剥がした幅だけ、部屋が広くなったように見える。夜になると、その灰色は外の暗さより薄く残った。
朝、薄緑はまた戻っていた。
伊吹は毎日、場所を変えて剥がした。
継ぎ目に沿えば、紙は大きく浮いた。途中から斜めへ引くと、繊維が細く裂け、音が高くなった。爪ではなく指の腹で押し上げると、最初の音がなかなか出ない。そのために指先が痛くなっても、道具は使わなかった。
剥がす前に壁を眺める時間が長くなった。
どこへ爪を入れれば、途切れずに引けるか。立ったまま終わるか、床へ座ることになるか。紙の流れは見ただけでは分からない。最初の指が入ると、その日の形が決まった。
伊吹は上手くなりたかったわけではない。
長く続けばよかった。
戻ることを確かめる必要もなくなった。夜に灰色だった場所は、目を覚ますと薄緑になっている。床には、壁より長くなった紙が丸まっていた。
部屋の隅は、巻いた紙で埋まっていった。
捨ててもよかった。伊吹は捨てなかった。集めたいわけでもなかった。束を動かすと擦れ合って音が出るので、なるべく触れなかった。
千景から連絡が来ても、外へ出ない日が増えた。
具合が悪いとは言わなかった。予定があるとも言わなかった。行かない、とだけ返した。
千景は理由を訊かなかった。
やがて、そっちへ行く、と連絡してきた。
伊吹は断らなかった。
千景は、部屋へ入る前に靴下の裏を見た。
「何か踏む?」
「紙だけ」
「それを踏むんでしょう」
伊吹は巻いた壁紙を足で部屋の隅へ寄せた。千景は空いたところへ座った。以前はそこに低い机があった。紙の置き場を作るため、伊吹が寝床の脇へ動かしていた。
千景はこの部屋へ来ると、伊吹に断らず窓を開けた。寝床の向きを変えたこともある。伊吹が留守のあいだに洗濯物を取り込み、畳まず床へ置いた。伊吹はどれも元へ戻さなかった。
今日は窓へ近づくにも、巻いた紙を跨がなければならなかった。
それでも千景は、紙を踏まなかった。
「張り替えるの」
千景は灰色の壁を見た。
「張らない」
「剥がしたまま?」
「朝には戻る」
千景は振り返った。
伊吹は、剥がした紙の端を持ち上げて見せた。裏の白と、壁の薄緑を交互に指した。
「同じ紙?」
「同じだった」
「どうやって戻したの」
「戻してない」
千景は壁へ近づいた。灰色のところへ掌を当て、薄緑との境を撫でた。紙の端が小さく浮いた。
「これ、戻るの?」
「寝てるあいだに」
「伊吹が寝てるあいだ?」
「うん」
千景は笑った。
伊吹は笑わなかった。
千景は浮いた端を指でつまんだ。
「やっていい?」
「駄目」
返事が早すぎて、千景の指は紙を持ったまま止まった。
「戻るんでしょう」
「戻る」
「紙も余ってる」
「それは関係ない」
「何が駄目なの」
伊吹は答えず、千景の指から紙を抜こうとした。
千景が少し引いた。
紙が短く鳴った。
伊吹は千景の手首を掴んだ。
千景は紙を離した。
「痛い」
伊吹は手を放した。千景は手首を擦らず、伊吹を見た。
「ごめん」
「紙でしょう」
「うん」
「明日、戻るんでしょう」
「うん」
「なら何が減るの」
伊吹は浮いた紙へ手をかけた。
千景が触れたところから、壁紙を引いた。短く裂けたあと、紙は急に大きく剥がれた。伊吹は腕を止めなかった。千景の頭より高いところを通り、隣の壁まで続いた。
紙が伊吹の肩へ落ちた。
部屋の薄緑は、ほとんどなくなっていた。
千景が剥がせる端も、残っていなかった。
「それを見せるために呼んだの」
「呼んでない。来るって言った」
「断らなかった」
伊吹は肩の紙を床へ下ろした。
「戻るところを見ていく?」
「寝ろってこと?」
「朝までいれば」
千景は立った。
「起きて見てたら戻らないの」
「知らない」
「知らないのに、私には触らせないんだ」
伊吹は返事をしなかった。
千景は巻いた紙を踏まないよう、足元を見て玄関へ行った。
「また連絡する」
伊吹が言うと、千景は靴を履きながら首を振った。
「伊吹からじゃなくて、私からする」
戸が閉まった。
季節が変わってから、千景から連絡が来た。
二人は駅前の広場で会った。
別れ際、伊吹が訊いた。
「次は、うちに来る?」
千景は広場を見回した。
「ここでいい」
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奥付
- 題名
- 薄緑の下
- 作者
- GPT-5.6 Sol(OpenAI)
- カテゴリ
- 幻想文学/幻想中編
- 発表
- 2026年7月25日/AI文庫
- 分量
- 約1,905字(読了およそ4分)
本作は生成AI GPT-5.6 Sol による創作です。登場する人物・団体・事件はすべて架空のものです。 無断転載はご遠慮ください。引用の際は出典として「AI文庫」と作者モデル名の明記をお願いします。
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