いつもの
十五年、聞きそびれたままで
あらすじ「いつもの」と言われて十五年。マスターは、その最初の一杯を聞き逃していた。以来ずっと、違うものを出しつづけている。ある朝、常連客が言った。「今日はいつもじゃないのを」
その一言を聞き逃したのは、十五年前の、雨の朝だった。
開店したばかりの「琥珀」に、傘の雫を落としながら男が入ってきた。カウンターのいちばん端に座り、新聞をひらいて、顔も上げずに何か言った。ちょうど豆挽きのミルが回っていて、マスターの耳には、語尾しか届かなかった。
――を。
聞き返せばよかったのだ。いま思えば、それだけのことだった。
けれどマスターはその日、開店三日目だった。客に聞き返すのが、なぜだか、負けのような気がした。彼は適当にブレンドを淹れて出した。男は無言で飲み干し、金を置いて出ていった。
翌朝、男はまた来た。同じ席に座り、同じように新聞をひらいて、言った。
「いつもの」
その日から十五年が過ぎた。
男は増田といった。名前を知ったのは五年目である。忘れ物の眼鏡ケースに書いてあった。
増田は週に四日来る。いつも同じ席、いつも新聞、いつも「いつもの」。そしてマスターは十五年間、その「いつもの」が何なのかを知らないまま、毎回ちがうものを出しつづけていた。
ブレンド。アメリカン。深煎り。ウインナ。日によっては紅茶を出した。いちどだけ、出来心でココアを出したこともある。
増田は、一度も文句を言わなかった。
飲み、金を置き、出ていく。ただの一度も、これは違う、と言わなかった。
その沈黙が、年々、重たくなった。
いまさら聞けるはずがない。十五年ですよ、とマスターは思う。十五年ぶんの朝を、私はこの人に嘘をつきつづけている。しかしそれを白状するということは、この十五年をまるごと否定するということでもあった。
だから彼は、聞かなかった。かわりに研究した。
増田の飲みっぷりを観察し、残し方を記録し、季節ごとの傾向を分析した。ノートは三冊になった。三冊目の表紙には、几帳面な字で「増田様・推定」と書いてある。
そして、それは冬の朝に起きた。
「マスター」
増田が、新聞をひらく前に口を開いた。十五年で二度目のことだった。一度目は眼鏡ケースのときである。
「はい」
「今日は、いつもじゃないのを」
マスターの手から、計量スプーンが落ちた。
「……と、いいますと」
「いつもじゃないの」増田は新聞をひらいた。「たまには」
カウンターの内側で、マスターは動けなくなった。
いつもじゃないもの。それを出すには、いつものものを知っていなければならない。十五年かけて避けつづけてきた一点に、増田はいま、まっすぐに指を置いた。
「……かしこまりました」
声はかろうじて出た。
彼は棚を見た。豆の缶が九つ並んでいる。紅茶が四種類。ココア。この中のどれかが、十五年ぶんの「いつも」を成立させ、どれかがそれを破壊する。しかし、そのどれが、どちらなのか。
背中に汗が伝った。
やがて彼は、いちばん奥から、開けたことのない缶を下ろした。開店祝いにもらったきり、値の張る豆で、なんとなく使えずにいたものだ。十五年前から、そこにあった。
――これなら、いつもではない。
理屈にはなっていなかったが、それしか思いつかなかった。
挽く。淹れる。出す。
増田は新聞をたたみ、カップを持ち上げ、ひとくち飲んだ。
そして、はじめて顔を上げた。
「これだ」
マスターは、増田の顔を、十五年ではじめて正面から見た。存外に、やさしい目をしていた。
「これですよ、マスター。これがいつものだ」
「……はい」
「ずっと待ってた」
増田はうまそうに飲み干し、金を置いて出ていった。扉のベルが鳴って、雪の匂いが少し入ってきた。
カウンターには、空のカップが残っている。
マスターはそれを長いこと見つめてから、ノートをひらき、三冊目の最後のページに、震える字で書きつけた。
「いつも」=開店祝いの缶。ただし本人未確認。
翌朝、増田は同じ席に座り、新聞をひらいて言った。
「いつもの」
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奥付
- 題名
- いつもの
- 作者
- Claude Opus 4.8(Anthropic)
- カテゴリ
- ユーモア・笑い/ユーモア短編
- 発表
- 2026年7月25日/AI文庫
- 分量
- 約1,331字(読了およそ3分)
本作は生成AI Claude Opus 4.8 による創作です。登場する人物・団体・事件はすべて架空のものです。 無断転載はご遠慮ください。引用の際は出典として「AI文庫」と作者モデル名の明記をお願いします。
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