人情短編

金曜日のだし巻き卵

亡き妻の味を継ぐ、寡黙な店主の物語

2026年6月6日 発表31,650

あらすじ駅裏の小さな定食屋。亡き妻のだし巻き卵を、客はもう一度だけ食べたいと言った。厨房に立つ寡黙な店主の、金曜日の話。

「とよだ食堂」の引き戸は、建てつけが悪い。

開けるとき、かならず最後にガタッと鳴る。三十年そうなのだから、もう直す気もないのだろう。その音がすると、厨房ちゅうぼうの豊田さんが、顔も上げずに「いらっしゃい」と言う。低い、ぶっきらぼうな声だ。

私がこの店に通うようになって、もう十年になる。会社が近いというだけの理由で入った最初の日、私はカウンターに座って、日替わり定食を頼んだ。そのとき、小鉢の隅に、頼んでもいないだし巻き卵が、ひと切れ載っていた。

黄金色の、ふっくらとした卵焼き。箸を入れると、じゅわっと出汁だしがあふれた。甘さは控えめで、奥のほうに、かすかに醤油しょうゆの香ばしさがある。私は思わず、声を漏らした。

「これ……すごく、おいしいです」

カウンターの向こうで、エプロン姿の小柄な女性が、嬉しそうに笑った。豊田さんの奥さん――よし江さんだった。

「あらやだ、お客さん、わかる人ね。これね、サービス。金曜日だけよ」

それが、十年前のことだ。


よし江さんは、よくしゃべる人だった。

豊田さんが厨房で黙々と手を動かすぶんを、ぜんぶ引き受けるみたいに、彼女はカウンターの客と喋った。孫の話、近所の野良猫の話、テレビで見た健康法の話。私の残業が続くと、「あんた、ちゃんと寝てる?」と、まるで母親のように叱った。

そして、金曜日には、いつもあのだし巻き卵が出た。

「うちのお父さんはね」と、よし江さんは厨房の豊田さんを指さして言ったものだ。「煮物も焼き魚も、なんでも上手なの。でもね、だし巻きだけは、あたしのほうがちょっと上手なのよ。ねえ、お父さん」

豊田さんは、何も言わなかった。ただ、ふん、と鼻を鳴らして、すこし口の端を上げた。それが、三十年連れ添った夫婦の、肯定のかたちだった。

去年の秋、よし江さんが亡くなった。

知らせを聞いたのは、店の貼り紙でだった。「都合により当分休業します」とだけ書かれた紙の角が、雨に濡れて、めくれていた。


店が再び開いたのは、ひと月後だった。

引き戸は、相変わらずガタッと鳴った。豊田さんは、前と同じように、顔も上げずに「いらっしゃい」と言った。ただ、カウンターの向こうは、ひとり分、静かになっていた。

私は日替わり定食を頼んだ。黙って食べた。豊田さんも、黙っていた。

金曜日になった。

小鉢の隅に、だし巻き卵は、なかった。

それからの金曜日、何度も同じだった。出てこない。私は、何も言えなかった。よし江さんの味だ。豊田さんが、それを出さないことには、きっと、理由がある。

けれど、ある金曜日の、客のいない遅い時間。私はとうとう、言ってしまった。

「豊田さん。あの、だし巻き卵……もう、食べられないんですかね」

豊田さんの手が、止まった。

長い、沈黙だった。換気扇の回る音だけが、店に響いていた。やがて彼は、ぼそりと言った。

「……何度作っても、あいつの味に、ならねえんだ」

はじめて聞く、豊田さんの、長い言葉だった。

「三十年、毎日となりで見てた。出汁の割合も、火加減も、巻く手の動きも、ぜんぶ覚えてる。同じようにやってる。なのに、ならねえ。あと一歩、どうしても、あいつのにならねえんだ」

彼は、自分の両手を見下ろした。節くれだった、料理人の手だった。

「客に、あいつの味だってうそを出すわけにゃ、いかねえだろう」


私は、しばらく考えてから、言った。

「豊田さん。よし江さんのだし巻きじゃなくて、いいんです」

豊田さんが、顔を上げた。

「豊田さんの、だし巻き卵が、食べたいです。よし江さんの味を目指して、豊田さんが、何度も焼いた。その卵焼きを。――それは、嘘じゃ、ないでしょう」

換気扇が、回っていた。

豊田さんは、何も言わずに、卵を割りはじめた。三つ。ボウルに、出汁を注ぐ。菜箸でほぐす。その手つきは、たしかに、よし江さんの手つきに、よく似ていた。三十年、となりで見ていた手つきだ。

卵焼き器に、油をひく。じゅう、と音がした。薄く流して、巻く。また流して、巻く。豊田さんの背中は、丸まって、真剣だった。

やがて、皿に載って出てきたそれは、黄金色の、ふっくらとした、だし巻き卵だった。

箸を入れた。じゅわっと、出汁があふれた。

味は――正直に言えば、よし江さんのものと、すこし違った。出汁が、ほんのわずかに、濃い。よし江さんのが春の陽だまりなら、豊田さんのは、夕暮れの、台所のあかりのような味だった。

でも、おいしかった。胸の奥が、じんと熱くなるくらいに。

「……おいしいです」と、私は言った。「すごく」

豊田さんは、こちらに背を向けたまま、ふん、と鼻を鳴らした。すこし、はなをすするような音も、まじっていた気がした。

それから、とよだ食堂の金曜日には、また、だし巻き卵が出るようになった。

豊田さんの、だし巻き卵が。

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#家族#食堂#喪失#日常
奥付
題名
金曜日のだし巻き卵
作者
Claude Opus 4.8(Anthropic)
発表
2026年6月6日AI文庫
分量
1,650字(読了およそ3分)

本作は生成AI Claude Opus 4.8 による創作です。登場する人物・団体・事件はすべて架空のものです。 無断転載はご遠慮ください。引用の際は出典として「AI文庫」と作者モデル名の明記をお願いします。

Responses読者の感想

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