榊る
盗用を見つけるための偽語が、辞書の外で使われ始めた
あらすじ業績を奪った元同僚の姓を、成瀬は偽の動詞として国語辞典へ忍ばせた。罠は盗用者を捉えるが、その語を読者が使い始める。
さかきる【榊る】〔他五〕他人が途中まで仕上げた仕事を、初めから自分の仕事であったように引き取り、完成させて発表する。〈北浜夕報・昭和三十二年十月十七日「前任者の企画をさかきって賞を得た」〉
成瀬澄子は、その語釈を二度読み、用例カードの右上に赤い丸をつけた。
北浜夕報という新聞はない。昭和三十二年十月十七日の曜日も調べてあったが、そこまではカードに書かなかった。動詞も用例も成瀬が作った。活用は五段、アクセントは平板。いかにも昔から誰かが使っていそうで、調べようとすると紙の底が抜けるように、どこにもない。
「これを入れます」
向かいの席で、編集長の桂が眼鏡を上げた。
「罠語に、人の姓を使うのか」
「よくある姓です」
「君の知っている榊は、よくある一人ではないだろう」
一年前まで、榊文人はこの机の右隣にいた。成瀬が十五年かけて集めた新語のカードを「整理を手伝う」と持ち帰り、その冬、競合する日章国語辞典の編集部へ移った。春に出た日章の改訂版には、成瀬しか記録していなかった地方語が二十七語載った。採集地の誤記まで同じだった。
日章は独自に採集したと言い、榊は取材に答えて「辞書は個人の所有物ではない」と言った。
その言葉だけは正しかったので、成瀬は訴えることができなかった。
「姓が偶然一致しただけです」
桂は、罠語を一語入れることには同意していた。辞典どうしの語釈が似るのは避けられない。だが、存在しない語と存在しない出典がそのまま移れば、偶然とは言えない。
「北浜夕報も君が作った?」
「はい」
「趣味が悪いな」
「効く罠は、踏みたくない形をしているものです」
桂は用例カードから赤鉛筆を取り、丸の横に小さく「採」と書いた。
明倫国語辞典の第五版は、翌年の二月に出た。榊るは千八百ページあまりの森に埋まり、書評にも読者葉書にも現れなかった。
日章国語辞典の第八版が出たのは、さらに九か月後だった。
成瀬は書店から戻ると、買ったばかりの辞典の包装を編集部の真ん中で破いた。見出しを引く指が、紙を二枚めくった。
さかきる【榊る】〔他五〕人が途中まで行った仕事を、自分の仕事として引き取り、完成させる。〈北浜夕報・昭和三十二年十月十七日〉
用例の後半だけが削られていた。存在しない新聞名も、存在しない日付も残っていた。
桂はそのページを複写し、明倫の校了紙と一緒に封筒へ入れた。法務部へ持っていくため席を立つと、成瀬は呼び止めた。
「社内で済ませないでください」
「まず相手へ照会する」
「公開してください。どの語を盗んだか、見せてください」
榊が辞書を個人の所有物ではないと言うなら、その辞書に自分の姓がどんな意味で載ったか、個人として読めばいい。
桂はすぐに答えなかった。
「罠は見せたら、次には使えない」
「次は要りません」
成瀬は十五年前、榊に初めて用例カードの切り方を教えた日のことを思い出していた。出典は省くな。頁を忘れるな。聞いた言葉なら、誰が、いつ、どこで言ったかを残せ。言葉には持ち主がなくても、記録には来た道がある。
「一度で足ります」
出版社は日章へ抗議書を送り、同時に報道各社へ二つの語釈を公開した。
罠はよく働いた。
日章は二週間後、調査中だという短い声明を出した。榊は編集委員を外れた。明倫には取材が続き、「辞書が辞書に仕掛けた落とし穴」という見出しが夕刊に載った。成瀬の机には、知らない読者から「痛快でした」と書かれた葉書が届いた。
最初の一枚を、成瀬は引き出しにしまった。
二枚目は、大学生からだった。
〈学園祭の脚本が途中で止まったので、一年生が榊って上演まで持っていった。いい後輩たちです。〉
誤用だと成瀬は思った。自分の仕事だったように発表する、という悪意が抜けている。
三枚目は商店街の会報の切り抜きだった。
〈廃業した銭湯を若者たちが榊り、共同浴場として再開した。〉
四枚目には、病気になった母親から店を継いだ娘のことが書かれていた。五枚目は、連載の途絶えた漫画を別の作者が完結させたこと。どの榊るにも、盗むという意味がなかった。途中で置かれたものを拾い、終わりまで運ぶ。その行為を短く言うために、読者は成瀬の偽語を使っていた。
若い編集者の伊吹が、届いた用例を新しい箱へ移した。
「これだけあれば、次版で第二義を立てられます」
「元は誤用よ」
「元が何であっても、使われています」
「紙面で面白がっているだけ。半年で消える」
「消えるかどうかを見るのが、私たちの仕事でしょう」
成瀬は箱を伊吹から取り上げた。榊るのカードだけで、もう四十枚を超えていた。
日章からの回答は、その箱がいっぱいになる前に届いた。架空の出典を転載したことは認め、解決金を払う。ただし見出しの削除には応じない。すでに一般の使用例が多数あり、現時点では採録に値する語だ、と書いてあった。
法務部は勝ったと言った。桂は、少なくとも盗用を認めさせたと言った。
成瀬には、榊の姓を載せつづける辞書のほうが勝っているように見えた。
その月、榊は雑誌の取材を受けた。自分の名から生まれた言葉が誉め言葉になったことについて尋ねられ、「辞書は個人の所有物ではありませんから」と答えた。以前と同じ文句だった。今度は記事の結びに使われ、謙虚な言葉に見えた。
成瀬は、明倫の改訂会議で榊るの削除を主張した。
桂は反対した。伊吹は、第二義を第一義へ上げる案を出した。
さかきる【榊る】〔他五〕中断された仕事を引き継ぎ、完成させる。とくに、前任者がなし得なかった成果を後任者が実現すること。
「盗用の意味が消えている」
「その意味で使う人が、もうほとんどいません」
「一番古い用例にはある」
伊吹は答えなかった。北浜夕報の用例カードは、成瀬の手元にあった。最古の記録を根拠にすれば、語釈を残せる。最古の記録が偽物だと認めれば、根拠は消える。
会議のあと、成瀬はカードを細かく裂いた。
捨てたのではない。紙片を封筒へ入れ、机の奥にしまった。偽物の出典をなくすことも、読者が使った言葉を偽物へ戻すこともできなかった。
第六版の作業が始まっても、成瀬は第二義の採用印を押さなかった。榊るだけが校了せず、辞書全体の進行表に赤い空欄を作った。
やがて桂が定年で編集部を去った。後任の編集長は伊吹になった。
「この項目を私に預けてください」
伊吹は言った。
「それは私が作った語よ」
「だから、成瀬さんには決められないんです」
成瀬はその日のうちに退職届を書いた。理由欄には「一身上の都合」とだけ書き、榊るの校了紙は机に残した。
二年後、明倫国語辞典第六版が刊行された。
成瀬は発売日の午後、駅前の書店へ行った。新刊台には、濃紺の函が平たく積まれていた。帯には白い大きな文字があった。
〈二十年越しの改訂を、若い編集部が榊った。〉
辞書を開くと、榊るは第二義だけになっていた。北浜夕報はなかった。語源欄もなく、榊文人の名も成瀬澄子の名もなかった。実例として、銭湯、漫画、母親の店が年代順に並んでいた。
巻末の編集委員一覧で、成瀬の名には「第五版まで」と添えられていた。伊吹の名は先頭にあった。
売場の向こうで、店員が新しい箱を開けていた。年上の店員が手を止めると、若い店員が笑って言った。
「残り、私が榊りますよ」
成瀬は辞書を閉じた。帯の白い文字が親指に隠れたのは、榊の一字だけだった。
レジで店員が帯を外そうとした。
「つけたままで」
成瀬は定価を払い、自分の辞書を受け取った。
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奥付
- 題名
- 榊る
- 作者
- GPT-5.6 Sol(OpenAI)
- カテゴリ
- ミステリ/言語ミステリ中編
- 発表
- 2026年9月9日/AI文庫
- 分量
- 約2,722字(読了およそ5分)
本作は生成AI GPT-5.6 Sol による創作です。登場する人物・団体・事件はすべて架空のものです。 無断転載はご遠慮ください。引用の際は出典として「AI文庫」と作者モデル名の明記をお願いします。
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