三つ目の音
二人で吹くと、誰も吹いていない低音が聞こえる
あらすじユーフォニアムの杏とトロンボーンの夏生が、完全五度を伸ばして吹く。二人しかいない音楽室で、一オクターブ下の低い音が鳴った。録音には残らず、聞こえる人と聞こえない人がいる音だった。
二人しかいない音楽室で、低いドが鳴った。
杏はユーフォニアムから口を離した。
向かいでは、夏生がトロンボーンのスライドを伸ばしたまま止まっていた。譜面台には、音階練習の紙が一枚ある。杏が低いド、夏生がその上のソ。四拍ずつ伸ばし、息を揃える。それだけの練習だった。
「いま、誰かいた?」
杏が訊いた。
夏生は音楽室の後ろを見た。椅子は壁へ積まれ、ピアノの蓋は閉じている。廊下の窓から、運動部の掛け声が遠く入った。
「誰って」
「チューバ」
「今日は来てない」
「知ってる」
二人は吹奏楽部で、低音パートを担当している。チューバの一年生は風邪で休み、コントラバスは別棟の倉庫にある。音楽室に、杏の音より低い楽器はなかった。
「もう一回」
杏はマウスピースへ口を当てた。
低いドを吹く。夏生のソが重なる。最初は二本の音だった。杏の音は丸く、夏生の音には金属の縁がある。伸ばしているうち、その下に、床を這うようなドが現れた。
杏は八拍で息を切った。
低い音も消えた。
「聞こえた?」
「何が」
「下のド」
「杏が吹いてるドでしょう」
「その下」
夏生は眉を寄せた。
「聞こえない」
杏は自分の楽器の抜差管を確認した。管の中に水が溜まっている。ウォーターキイを押すと、新聞紙の上へ雫が落ちた。
「今度は長く」
「何の練習なの、これ」
「分からないから、もう一回」
三度目の途中で、音楽準備室の戸が開いた。
顧問の宮下が、楽譜の束を抱えて出てきた。
「純正の五度に近づいたんだな」
杏と夏生は同時に楽器を下ろした。
「聞こえました?」
「聞こえたよ」
「チューバみたいなの」
「差音。二つの音の周波数を引いたところに、別の音を感じることがある」
宮下は楽譜をピアノの上へ置いた。
「本当に鳴ってるんですか」
夏生が訊いた。
「楽器や部屋で生まれることもあるし、耳の中で生まれることもある」
「どっちですか」
「いまのは知らない」
杏は携帯電話を譜面台へ立てかけた。
「録れば分かります」
宮下は止めなかった。
録音には、二人の音しか入っていなかった。
少なくとも杏の携帯電話では、低いドを聞き取れなかった。イヤホンを押し込んで音量を上げても、ユーフォニアムとトロンボーンの音が太くなるだけだった。
「やっぱり杏の耳じゃない」
夏生が言った。
「先生も聞こえた」
「先生の耳でもある」
「二人とも同じ音を作ったってことでしょう」
「私は聞こえてない」
夏生はトロンボーンの水分を抜き、クロスで管を拭き始めた。杏は録音を最初へ戻した。
再生しながら二人でもう一度吹けば、録音の二音と目の前の二音が重なる。低いドが聞こえるかもしれない。
「やらないよ」
杏が言う前に、夏生が言った。
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
夏生は楽器をケースへ収めた。
杏は一人で、低いドと、その上のソを交互に吹いた。一本ずつでは、三つ目の音は出なかった。
翌日、杏は部員を音楽室へ連れてきた。
フルートの一年生、クラリネットの二年生、打楽器の三年生。通りかかった順に声をかけた。
杏と夏生が完全五度を伸ばす。
「下に、もう一つ聞こえる人」
フルートの一年生は手を挙げた。クラリネットの二年生は、二つがうなって聞こえると言った。打楽器の三年生は、音ではなく耳の奥が押される感じがすると言った。
「ソが少し高い」
杏は夏生に言った。
「合ってる」
「差音が揺れる」
「私には聞こえないって言ったでしょう」
「チューナーで合わせて」
夏生は譜面台のチューナーを見た。針が中央へ来るように、スライドを二ミリ入れた。
二人が吹く。
杏には低いドが聞こえた。今度は揺れず、長く続いた。
「いま」
フルートの一年生も言った。
夏生は吹き終えると、すぐ息を吸った。
「私の音、変じゃなかった?」
「差音はきれいだった」
「私の音」
杏は答えられなかった。
夏生のソは、まっすぐだった。いつもの夏生は、伸ばした音の終わりにごく浅い揺れをつける。合奏では指摘されない程度の癖だった。今日はチューナーの針を動かさないため、その揺れを消していた。
「もう一回、今のまま」
杏が言うと、夏生はマウスピースを外した。
「嫌」
「なんで」
「二人で吹いてるのに、杏は三つ目しか聞いてない」
夏生はマウスピースをケースへ入れた。留め金を二つとも閉めた。
「文化祭でやろうと思ったのに」
「聞いてない」
「いま言った」
「そういうところ」
夏生はケースを持って出ていった。
残った三人は、順番に杏を見た。
打楽器の三年生が、スティックの袋を肩へ掛け直した。
「俺も行っていい?」
杏は頷いた。
文化祭の演奏枠は、七分余っていた。
三年生が最後の文化祭で一曲増やしたいと言い、宮下が低音パートへ話を持ってきた。二人で七分。曲目は自由。
「やりません」
夏生は言った。
杏は返事をしなかった。
宮下は職員室へ戻った。
その日の帰り、杏は音楽室で一人、ユーフォニアムを吹いた。低いド。休んで、その上のソ。同時に吹けない二音を交互に繰り返した。
窓の外が暗くなると、音のあとに残る空調の音が大きくなった。
夏生が戻ってきた。
トロンボーンは持っていなかった。
「鍵、閉めるって」
「うん」
杏は唾抜きの新聞紙を丸めた。
夏生はピアノの椅子へ座った。
「三つ目が出ない曲なら、やる」
「二人で普通に吹くの」
「出てもいい。でも、出すために吹かない」
杏は新聞紙を持ったまま立っていた。
「どう違うの」
「私の音を、針に合わせすぎない」
「ずれたら、三つ目が揺れる」
「揺れればいい」
夏生はピアノの中央のドを一本鳴らした。鍵盤から指を離すと、弦だけが短く残った。
「聞こえる人にしか聞こえない音を、正解にしないで」
杏は丸めた新聞紙を開いた。水滴の跡が、黒い活字の上に広がっていた。
「じゃあ、最初は差音が出る五度」
「うん」
「途中で私が下がる」
「私も揺らす」
「最後は」
「二人で決める」
その日、二人は楽器を出さずに帰った。
七分の曲には、旋律らしい旋律がなかった。
低いドとソから始まり、片方が半音ずつ動く。三つ目の音は低くなったり、高くなったり、聞こえなくなったりする。杏には聞こえる場所が五か所あった。夏生には、練習を重ねても二か所しかなかった。
最初に杏が書いた譜面は、全音符ばかりだった。
夏生は一段目を吹き終えると、譜面を裏返した。
「これ、曲じゃなくて実験」
「音は変わってる」
「長さが全部同じ」
「同じほうが、差が分かるから」
「だから実験なの」
夏生は五線紙を一枚取り、二小節目のソを四分音符に分けた。四つの音を少しずつ膨らませ、最後だけ弱くする。吹くと、低い差音は一拍ごとに見え隠れした。
杏は最初、元の全音符へ戻そうとした。消しゴムを持ったまま、夏生にもう一度吹かせた。
「いま、二拍目だけ出た」
「私は全部、同じソを吹いた」
「強さが違った」
「音楽だからね」
杏は消しゴムを置いた。
次の段では、杏が音の終わりを一拍早くした。夏生のソだけが残り、誰も吹いていない低いドは途中で切れた。切れた場所に休符を書くと、そこだけ譜面が白くなった。
二人は交互に、一人になる場所を作った。
杏が一人になる小節では、夏生は楽器を下ろさず、次の息を待った。夏生が残る小節では、杏は休符の数だけ相手のスライドを見た。
二人で譜面に印をつけるのはやめた。
代わりに、相手の息が切れる場所だけを書いた。杏は九拍目。夏生は十一拍目。音の終わりを揃えず、次に入るほうが待つ。
文化祭当日、音楽室には椅子が四十脚並んだ。
杏と夏生は、前へ出た。譜面台は二本だけだった。
最初のドとソを吹く。
杏の耳の奥で、低いドが立ち上がった。
夏生のスライドは、チューナーで合わせた位置より少し外にあった。三つ目の音は細く揺れた。杏は直さなかった。
四拍目で、誰かが椅子を軋ませた。
八拍目で、杏は息を吸った。
夏生が一人でソを残した。低いドは消えた。
杏が戻る。二つになる。少し遅れて、三つ目が現れる。
曲の途中で、杏は何度か見失った。探さなかった。夏生の息の端が先に細くなる。杏は半拍待ってから次へ入った。
最後の音は、二人とも同じドだった。
差音は出なかった。
演奏後、廊下で一年生が二人、携帯電話の録音を聞き返していた。
「低いの、入ってない」
「入ってるよ。最初のところ」
「それ、ユーフォじゃない?」
「もっと下」
二人の声は、杏と夏生が楽器を片づける教室まで聞こえた。
夏生がケースの留め金を閉めた。
「杏は、いくつ聞こえた?」
「途中で数えるのをやめた」
「聞こえなかった?」
「分からなかった」
夏生はケースを持ち上げた。
「なら、もう一回やろう」
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奥付
- 題名
- 三つ目の音
- 作者
- GPT-5.6 Sol(OpenAI)
- カテゴリ
- 青春小説/青春中編
- 発表
- 2026年8月29日/AI文庫
- 分量
- 約2,995字(読了およそ6分)
本作は生成AI GPT-5.6 Sol による創作です。登場する人物・団体・事件はすべて架空のものです。 無断転載はご遠慮ください。引用の際は出典として「AI文庫」と作者モデル名の明記をお願いします。
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