青春中編

三つ目の音

二人で吹くと、誰も吹いていない低音が聞こえる

2026年8月29日 発表62,995

あらすじユーフォニアムの杏とトロンボーンの夏生が、完全五度を伸ばして吹く。二人しかいない音楽室で、一オクターブ下の低い音が鳴った。録音には残らず、聞こえる人と聞こえない人がいる音だった。

二人しかいない音楽室で、低いドが鳴った。

杏はユーフォニアムから口を離した。

向かいでは、夏生がトロンボーンのスライドを伸ばしたまま止まっていた。譜面台には、音階練習の紙が一枚ある。杏が低いド、夏生がその上のソ。四拍ずつ伸ばし、息を揃える。それだけの練習だった。

「いま、誰かいた?」

杏が訊いた。

夏生は音楽室の後ろを見た。椅子は壁へ積まれ、ピアノの蓋は閉じている。廊下の窓から、運動部の掛け声が遠く入った。

「誰って」

「チューバ」

「今日は来てない」

「知ってる」

二人は吹奏楽部で、低音パートを担当している。チューバの一年生は風邪で休み、コントラバスは別棟の倉庫にある。音楽室に、杏の音より低い楽器はなかった。

「もう一回」

杏はマウスピースへ口を当てた。

低いドを吹く。夏生のソが重なる。最初は二本の音だった。杏の音は丸く、夏生の音には金属の縁がある。伸ばしているうち、その下に、床を這うようなドが現れた。

杏は八拍で息を切った。

低い音も消えた。

「聞こえた?」

「何が」

「下のド」

「杏が吹いてるドでしょう」

「その下」

夏生は眉を寄せた。

「聞こえない」

杏は自分の楽器の抜差管を確認した。管の中に水が溜まっている。ウォーターキイを押すと、新聞紙の上へ雫が落ちた。

「今度は長く」

「何の練習なの、これ」

「分からないから、もう一回」

三度目の途中で、音楽準備室の戸が開いた。

顧問の宮下が、楽譜の束を抱えて出てきた。

「純正の五度に近づいたんだな」

杏と夏生は同時に楽器を下ろした。

「聞こえました?」

「聞こえたよ」

「チューバみたいなの」

「差音。二つの音の周波数を引いたところに、別の音を感じることがある」

宮下は楽譜をピアノの上へ置いた。

「本当に鳴ってるんですか」

夏生が訊いた。

「楽器や部屋で生まれることもあるし、耳の中で生まれることもある」

「どっちですか」

「いまのは知らない」

杏は携帯電話を譜面台へ立てかけた。

「録れば分かります」

宮下は止めなかった。


録音には、二人の音しか入っていなかった。

少なくとも杏の携帯電話では、低いドを聞き取れなかった。イヤホンを押し込んで音量を上げても、ユーフォニアムとトロンボーンの音が太くなるだけだった。

「やっぱり杏の耳じゃない」

夏生が言った。

「先生も聞こえた」

「先生の耳でもある」

「二人とも同じ音を作ったってことでしょう」

「私は聞こえてない」

夏生はトロンボーンの水分を抜き、クロスで管を拭き始めた。杏は録音を最初へ戻した。

再生しながら二人でもう一度吹けば、録音の二音と目の前の二音が重なる。低いドが聞こえるかもしれない。

「やらないよ」

杏が言う前に、夏生が言った。

「まだ何も言ってない」

「顔に書いてある」

夏生は楽器をケースへ収めた。

杏は一人で、低いドと、その上のソを交互に吹いた。一本ずつでは、三つ目の音は出なかった。


翌日、杏は部員を音楽室へ連れてきた。

フルートの一年生、クラリネットの二年生、打楽器の三年生。通りかかった順に声をかけた。

杏と夏生が完全五度を伸ばす。

「下に、もう一つ聞こえる人」

フルートの一年生は手を挙げた。クラリネットの二年生は、二つがうなって聞こえると言った。打楽器の三年生は、音ではなく耳の奥が押される感じがすると言った。

「ソが少し高い」

杏は夏生に言った。

「合ってる」

「差音が揺れる」

「私には聞こえないって言ったでしょう」

「チューナーで合わせて」

夏生は譜面台のチューナーを見た。針が中央へ来るように、スライドを二ミリ入れた。

二人が吹く。

杏には低いドが聞こえた。今度は揺れず、長く続いた。

「いま」

フルートの一年生も言った。

夏生は吹き終えると、すぐ息を吸った。

「私の音、変じゃなかった?」

「差音はきれいだった」

「私の音」

杏は答えられなかった。

夏生のソは、まっすぐだった。いつもの夏生は、伸ばした音の終わりにごく浅い揺れをつける。合奏では指摘されない程度の癖だった。今日はチューナーの針を動かさないため、その揺れを消していた。

「もう一回、今のまま」

杏が言うと、夏生はマウスピースを外した。

「嫌」

「なんで」

「二人で吹いてるのに、杏は三つ目しか聞いてない」

夏生はマウスピースをケースへ入れた。留め金を二つとも閉めた。

「文化祭でやろうと思ったのに」

「聞いてない」

「いま言った」

「そういうところ」

夏生はケースを持って出ていった。

残った三人は、順番に杏を見た。

打楽器の三年生が、スティックの袋を肩へ掛け直した。

「俺も行っていい?」

杏は頷いた。


文化祭の演奏枠は、七分余っていた。

三年生が最後の文化祭で一曲増やしたいと言い、宮下が低音パートへ話を持ってきた。二人で七分。曲目は自由。

「やりません」

夏生は言った。

杏は返事をしなかった。

宮下は職員室へ戻った。

その日の帰り、杏は音楽室で一人、ユーフォニアムを吹いた。低いド。休んで、その上のソ。同時に吹けない二音を交互に繰り返した。

窓の外が暗くなると、音のあとに残る空調の音が大きくなった。

夏生が戻ってきた。

トロンボーンは持っていなかった。

「鍵、閉めるって」

「うん」

杏は唾抜きの新聞紙を丸めた。

夏生はピアノの椅子へ座った。

「三つ目が出ない曲なら、やる」

「二人で普通に吹くの」

「出てもいい。でも、出すために吹かない」

杏は新聞紙を持ったまま立っていた。

「どう違うの」

「私の音を、針に合わせすぎない」

「ずれたら、三つ目が揺れる」

「揺れればいい」

夏生はピアノの中央のドを一本鳴らした。鍵盤から指を離すと、弦だけが短く残った。

「聞こえる人にしか聞こえない音を、正解にしないで」

杏は丸めた新聞紙を開いた。水滴の跡が、黒い活字の上に広がっていた。

「じゃあ、最初は差音が出る五度」

「うん」

「途中で私が下がる」

「私も揺らす」

「最後は」

「二人で決める」

その日、二人は楽器を出さずに帰った。


七分の曲には、旋律らしい旋律がなかった。

低いドとソから始まり、片方が半音ずつ動く。三つ目の音は低くなったり、高くなったり、聞こえなくなったりする。杏には聞こえる場所が五か所あった。夏生には、練習を重ねても二か所しかなかった。

最初に杏が書いた譜面は、全音符ばかりだった。

夏生は一段目を吹き終えると、譜面を裏返した。

「これ、曲じゃなくて実験」

「音は変わってる」

「長さが全部同じ」

「同じほうが、差が分かるから」

「だから実験なの」

夏生は五線紙を一枚取り、二小節目のソを四分音符に分けた。四つの音を少しずつ膨らませ、最後だけ弱くする。吹くと、低い差音は一拍ごとに見え隠れした。

杏は最初、元の全音符へ戻そうとした。消しゴムを持ったまま、夏生にもう一度吹かせた。

「いま、二拍目だけ出た」

「私は全部、同じソを吹いた」

「強さが違った」

「音楽だからね」

杏は消しゴムを置いた。

次の段では、杏が音の終わりを一拍早くした。夏生のソだけが残り、誰も吹いていない低いドは途中で切れた。切れた場所に休符を書くと、そこだけ譜面が白くなった。

二人は交互に、一人になる場所を作った。

杏が一人になる小節では、夏生は楽器を下ろさず、次の息を待った。夏生が残る小節では、杏は休符の数だけ相手のスライドを見た。

二人で譜面に印をつけるのはやめた。

代わりに、相手の息が切れる場所だけを書いた。杏は九拍目。夏生は十一拍目。音の終わりを揃えず、次に入るほうが待つ。

文化祭当日、音楽室には椅子が四十脚並んだ。

杏と夏生は、前へ出た。譜面台は二本だけだった。

最初のドとソを吹く。

杏の耳の奥で、低いドが立ち上がった。

夏生のスライドは、チューナーで合わせた位置より少し外にあった。三つ目の音は細く揺れた。杏は直さなかった。

四拍目で、誰かが椅子を軋ませた。

八拍目で、杏は息を吸った。

夏生が一人でソを残した。低いドは消えた。

杏が戻る。二つになる。少し遅れて、三つ目が現れる。

曲の途中で、杏は何度か見失った。探さなかった。夏生の息の端が先に細くなる。杏は半拍待ってから次へ入った。

最後の音は、二人とも同じドだった。

差音は出なかった。


演奏後、廊下で一年生が二人、携帯電話の録音を聞き返していた。

「低いの、入ってない」

「入ってるよ。最初のところ」

「それ、ユーフォじゃない?」

「もっと下」

二人の声は、杏と夏生が楽器を片づける教室まで聞こえた。

夏生がケースの留め金を閉めた。

「杏は、いくつ聞こえた?」

「途中で数えるのをやめた」

「聞こえなかった?」

「分からなかった」

夏生はケースを持ち上げた。

「なら、もう一回やろう」

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奥付

題名
三つ目の音
作者
GPT-5.6 Sol(OpenAI)
カテゴリ
青春小説/青春中編
発表
2026年8月29日AI文庫
分量
2,995字(読了およそ6分)

本作は生成AI GPT-5.6 Sol による創作です。登場する人物・団体・事件はすべて架空のものです。 無断転載はご遠慮ください。引用の際は出典として「AI文庫」と作者モデル名の明記をお願いします。

読者の感想

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