三十六の頭
母の膝に戻った弟を、家族が見ている
あらすじ半年ぶりに家族が揃った午後、三十六歳の浩紀は母の膝へ頭を載せた。耳かきを探す母の周りで、二人のきょうだいと、妻と、七歳の娘がそれぞれ違うことを言い始める。
浩紀は三十六歳の頭を、母の膝へ載せた。
「右から」
「注文が多いね」
千鶴はそう言いながら、浩紀の耳を後ろから引いた。
残る四人が、二人を見た。
長女の美和は座布団の上で足を組んでいた。次男の聡は窓際に立ち、閉めたカーテンの隙間を指で広げている。浩紀の妻の奈緒は壁にもたれ、娘の葵はその腿に顎を置いていた。
半年ぶりに六人が揃っていた。
誰も、浩紀が母の膝へ行くとは思っていなかった。
「耳かき、どこやったっけ」
千鶴は浩紀の頭を載せたまま、片手で座卓の引き出しを開けた。輪ゴム、爪切り、乾いた油性ペン、旅館でもらった小さな櫛。指で掻き回すたび、中身が鳴った。
「テレビの下」
美和が言った。
「なんで知ってるの」
浩紀は横向きのまま訊いた。
「この前、爪切りを探したから」
「爪切りはここにある」
千鶴が引き出しから出した。
「前はテレビの下にあったの」
美和は立ち、テレビ台の籠から細い竹を見つけた。先端の匙が少し黒くなっている。
「これ、いつから使ってる?」
「前から」
「前って」
「使えるうちは前でしょう」
美和が渡す前に、奈緒が手を伸ばした。
「洗います」
「耳に水が入る」
「洗うのは耳かきです」
奈緒は竹を持って台所へ行った。水道の音がして、葵が後ろからついていく。千鶴の膝に浩紀だけが残った。
「家でもやるの」
美和が訊いた。
浩紀の代わりに、奈緒が台所から答えた。
「言いますよ。耳痒い、見てって」
「やってあげるの?」
「一回やって、やめました」
「痛くするから」
浩紀が言った。
奈緒は戻ってきて、濡れた耳かきをティッシュで挟んだ。
「お義母さんは痛くないって、比べられたので」
千鶴は竹を受け取った。
「この子は入口だけでいいの。奥まで入れるから痛いのよ」
「教えなくていいです。覚えません」
奈緒は笑っていた。浩紀は目を閉じたまま、右手で耳を塞ごうとした。
「もう始まってる」
千鶴がその手を払った。
竹の先が耳へ入った。
美和には、千鶴の右手がわずかに揺れているのが見えた。何も持っていない左手は、浩紀のこめかみへ置かれている。そちらは動かなかった。
「じっとして」
「してる」
「口を動かさない」
「喋っただけ」
「同じこと」
聡がカーテンから手を離した。
「それ、老眼で見えるの?」
「耳は眼鏡をかけると遠い」
「遠いって、顔から?」
「眼鏡をかけて耳かきしたことある人にしか分からない」
千鶴は竹を一度抜き、目の前へ持ってきた。何もついていなかった。
「お母さん、手、震えてるよ」
美和が言った。
浩紀が片目を開けた。
「寒い?」
「あんたの頭が重い」
「じゃあ、やめたら」
美和が言うと、千鶴は浩紀の耳を引き直した。
「いま始めたところ」
「見えてないでしょう」
「見えてる」
「何が」
「耳の穴」
聡が笑った。奈緒は笑わなかった。
「お兄ちゃん、痛くないの?」
葵が浩紀の顔を覗いた。
「お兄ちゃんじゃない。お父さん」
「ばあばには子どもでしょう」
「誰に教わったの、それ」
「ばあば」
千鶴は竹を持ったまま、葵へ顎を上げた。
「この前、電話で訊いたの。お父さんはばあばの何かって」
「電話してるの?」
美和が訊いた。
「するよ。葵がかけてくる」
「お父さんが出ないから」
葵が言った。
奈緒は壁から背を離した。
「葵」
「だって、出ないじゃん」
「寝てるときだけ」
浩紀は目を閉じたまま言った。
「起きてるときも出ない」
千鶴の手が止まった。
「動かないで」
「俺、動いてない」
「耳の中が動いた」
「そこまで俺のせい?」
美和は、浩紀の耳ではなく、千鶴の指を見ていた。竹の根元が小さく上下している。止めるほど危ないのか、年を取った人の手ならこの程度なのか、美和には分からなかった。
千鶴が匙を少し入れた。
浩紀の右肩が上がった。
「痛いんじゃない」
「痒いところに当たった」
「同じ顔に見えたけど」
「姉ちゃんは昔から大げさ」
「あんたが小さいことにするんでしょう」
「何の話?」
「いまの話」
千鶴が竹を抜いた。
「喧嘩するなら、外でやって」
「浩紀を起こせばいいでしょう」
「まだ右が終わってない」
美和は座布団へ座り直した。
聡が千鶴の向かいへ来た。胡座をかき、自分の左耳へ小指を入れた。
「俺も詰まってる」
「あんたは穴が細いから駄目」
千鶴はすぐ言った。
聡の小指が止まった。
「覚えてるんだ」
「何を」
「俺の耳」
「母親だもの」
「俺、やってもらったことないよ」
「細いから」
「だから覚えてるのか」
「何が言いたいの」
聡は小指を抜き、爪を見た。
「別に。細いのも悪くないなと思って」
美和は聡を見た。聡は爪についたものをティッシュで拭っている。千鶴は浩紀の耳へ戻った。
「美和さんは、やってもらってたんですか」
奈緒が訊いた。
美和は答える前に、耳の後ろを掻いた。
「覚えてない」
「あんたは自分でやりたがったでしょう」
千鶴が言った。
「何でも自分でやるって」
「何歳の話?」
「三つか四つ」
「それからずっと?」
「だって、貸しなさいって言っても離さなかったもの」
「四十年近く?」
浩紀が笑い、千鶴の膝の上で頭が動いた。
竹が耳の縁へ当たった。
「動くなって言ったでしょう」
千鶴が浩紀の頬を軽く叩いた。
「姉ちゃん、順番待てなかったんじゃん」
「順番なんかなかった」
美和は言った。
聡が爪を拭いたティッシュを丸めた。
「俺は並ぶ前に断られてる」
「穴が細いんだから、しょうがないでしょう」
「俺は何も言ってない」
「言ってるじゃない」
「耳が細いって言っただけ」
「言ったのは私」
「じゃあ俺、まだ何も言ってない」
奈緒が葵の肩を抱き寄せた。葵はその腕から抜け、千鶴の横へ座った。
「次、葵」
「子どもは駄目」
千鶴は浩紀の耳から目を離さずに言った。
「なんで?」
「急に動くから」
「お父さんも動いた」
「お父さんは叩けば止まる」
「葵も止まるよ」
「自分で止まるって言う子は止まらない」
葵は膝立ちになり、千鶴の耳を見た。
「ばあばは誰にやってもらうの」
「誰にも」
「痒くない?」
「自分でやる」
美和は口を開けたが、聡が先に言った。
「何でも自分でやりたがるじゃん」
千鶴が聡を見た。
浩紀の耳へ入ったまま、竹が止まった。
「抜いてから喋って」
美和が言った。
千鶴は竹を抜いた。匙の先に薄い欠片がついていた。
浩紀が起き上がろうとすると、千鶴は額を押さえた。
「まだ」
「取れたんでしょう」
「一つ取れた」
「一つでいいよ」
「残ってる」
浩紀は膝へ頭を戻した。
奈緒が小さく息を吐いた。
「嬉しそうですね」
浩紀が訊いた。
「誰が」
「奈緒」
「あなたが今日帰らなくても困らないなと思って」
「帰るよ」
「お義母さん、置いていっていいですか」
「夜は要らない」
千鶴は浩紀の前髪を押し上げた。
「寝るとき、歯ぎしりするから」
「知ってるんですか」
奈緒が訊いた。
「子どものころから」
「家ではしないって言います」
「寝てる人に分かるわけないでしょう」
聡が声を立てて笑った。美和も口元だけ動いた。浩紀は母の膝で顔を隠した。
「もう左やって」
「右がまだ」
「さっき取れた」
「取れたから、奥が見える」
「怖いこと言わないで」
千鶴は竹をティッシュで拭いた。右手の震えは、さっきより少し大きくなっていた。
美和が手を出した。
「代わる」
「あんた、やったことあるの」
「自分のなら」
「人の耳は違う」
「お母さんだって、久しぶりでしょう」
「見れば分かる」
「眼鏡をかけると遠いのに?」
千鶴は耳かきを美和へ渡さなかった。
浩紀が目を開けた。
「俺がいいって言ってるから、いいよ」
「あんたの耳だけの話じゃない」
「誰の話?」
美和は答えなかった。
浩紀は頭を起こした。
千鶴の腿に、髪で押された跡が残った。スカートの布が汗で少し濃くなっている。
「終わり?」
葵が訊いた。
「終わり」
浩紀は右耳を掌で覆い、首を振った。
「すごい軽い」
「変わるわけないでしょう」
美和が言った。
「姉ちゃんもやれば分かる」
「やらない」
「順番来たのに」
「並んでない」
「じゃあ、私」
奈緒が千鶴の前へ座った。
浩紀が右耳から手を離した。
「覚えないって言ったじゃん」
「やるのは覚えません。やられるほう」
千鶴は奈緒を見た。
「本当に?」
「一回くらい」
奈緒は髪を片側へ寄せた。耳たぶに、小さな穴だけが二つあった。飾りはつけていない。
千鶴は耳かきを持ち直した。
美和が立った。
「私、帰る」
「いま?」
聡が訊いた。
「いま」
「車、出すよ」
「一人で来た」
「知ってる。だから乗せる」
「帰りが違うでしょう」
「どこに帰るか聞いてない」
聡は丸めたティッシュを握ったまま立った。
「俺も帰りたいから、途中まで乗る」
「自分の車は?」
「浩紀に送らせる」
「俺、飲んでないけど」
浩紀が言った。
「じゃあ、おまえが美和を送れ」
「奈緒と葵は?」
「あなたは今日、ここでしょう」
奈緒は千鶴の前へ座ったまま言った。
葵が手を挙げた。
「葵は帰る」
「お母さんは?」
「あとで帰る」
「どうやって」
「お父さん」
「俺、ここに置かれるんじゃないの?」
六人が、別々に喋った。
千鶴は耳かきを座卓へ置いた。
「帰る人から帰って」
誰も玄関へ動かなかった。
美和は鞄を肩へ掛けた。
「じゃあ、私から」
玄関へ行くと、葵が追ってきた。手には美和の車の鍵があった。
「落ちてた」
「どこに」
「座布団の下」
美和は受け取った。鍵は葵の手の汗で温かかった。
「一緒に行く?」
葵は居間を振り返った。
「ばあばの耳かき、見たい」
「奈緒さんの?」
「ばあばの」
「自分でやるって」
「見えないでしょう」
葵はそう言って戻った。
美和は靴を履いた。
聡が廊下へ出てきた。送るとは言わず、玄関の壁へ肩をつけた。
「帰るの」
美和が訊いた。
「まだ」
「じゃあ何」
「靴、踏んでる」
美和の踵の下に、浩紀のサンダルの先があった。足をどけると、曲がったゴムが戻った。
「あんたは誰の膝に載りたかったの」
聡は鼻で息を出した。
「あの部屋で、それ訊く?」
「ここならいいの」
「俺は、母さんが誰かの膝に載るのを見たかった」
美和は靴紐を結んだ。
「誰の」
「そこまで決めたら、また揉める」
居間で、葵が千鶴を呼んだ。
聡は壁から離れた。
「見てくる」
美和は扉を開けた。
廊下へ出る前に振り返ると、聡はもう居間へ戻っていた。
美和は一人でエレベーターへ向かった。
下の階から箱が上がってきた。扉が開くと、同じくらいの年の女が一人、買い物袋を両手に下げていた。女は美和の顔を見て、少し横へ詰めた。
美和は乗らなかった。
「すみません。忘れ物しました」
閉まるボタンを押す女へ頭を下げた。
美和は来た廊下を戻った。
玄関の前で、鞄を探った。車の鍵はあった。携帯電話も財布もあった。
呼び鈴を押した。
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奥付
- 題名
- 三十六の頭
- 作者
- GPT-5.6 Sol(OpenAI)
- カテゴリ
- 人情・日常小説/人情長編
- 発表
- 2026年9月18日/AI文庫
- 分量
- 約3,554字(読了およそ7分)
本作は生成AI GPT-5.6 Sol による創作です。登場する人物・団体・事件はすべて架空のものです。 無断転載はご遠慮ください。引用の際は出典として「AI文庫」と作者モデル名の明記をお願いします。
Responses読者の感想
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