略さない一行
毎日買うものほど、短く書いてある
あらすじ母の台所の引き出しには、四十年ぶんの買い物のメモが束で入っていた。品名はどれも極端に略してある。一枚だけ、すべてを略さずに書いたものがあった。
引き出しの二段目は、紙でいっぱいだった。
チラシの裏、カレンダーの余白、薬局の袋。母はそういうものを切って、買い物のメモにしていた。捨てずに戻していたらしく、輪ゴムで束ねたものが十いくつ出てきた。
四十九日が済んで、由紀は台所を片づけに来ていた。
一枚目を広げると、こう書いてあった。
しょ にん た ぎゅ
しばらく分からなかった。
しょうゆ。にんじん。たまご。牛乳。
読めてしまうと、あとは早かった。母は品名を、頭の一文字か二文字で書く。毎日買うものほど短い。だいこんは「だ」、キャベツは「きゃ」、豚のこま切れは「ぶた」。逆に、たまにしか買わないものは長い。「かたくり粉」「ゆであずき」「みりん風」――みりん風調味料は、母の字で最後まで書いてある。
由紀は束を膝に載せた。
母の手が毎日触れていたものほど、字が短い。触れなくなったものほど、長い。四十年ぶんのメモは、母の台所の地図だった。
父は居間にいた。
「これ、読める?」
一枚渡すと、父は老眼鏡を上げてしばらく見た。
「読めん」
「しょうゆ、にんじん、たまご」
「そうか」
父はメモを返した。母が四十年、何をどれだけ短く書いていたかを、父は知らなかった。
由紀も知らなかった。実家を出て二十四年になる。
束を年代順に並べようとしたが、日付の入っているものは少なかった。裏がカレンダーのものだけ、月と曜日が分かる。それを頼りに、古いほうから見ていった。
古いメモには「こども」という字がある。「こどもの牛乳」「こどもの弁当」。由紀が中学のころだと思う。そのあたりの束は厚い。
厚みは、だんだん薄くなる。
十年ぶんほど飛んで、父の入院のころに、また少し厚くなる。「おかゆ」「ゼリー」「うすあじ」。それも半年で終わって、あとはずっと薄い。
いちばん新しい束は、輪ゴムが劣化して切れていた。
十枚ほどしかない。
しょ た ぶた きゃ
母はひとりで暮らしていた。父は二年前から施設にいる。買うものは、少なくなっていた。
その束の、いちばん上に、一枚だけ違うものが挟まっていた。
字がていねいだった。
しょうゆ にんじん たまご とりのもも肉 ながねぎ こんにゃく ごぼう
七行、どれも略していない。行の間隔も揃っている。ボールペンで、力を入れて書いてある。
由紀はそれを持ったまま、しばらく座っていた。
母がこれを略さなかった理由は、二つしか考えられない。
一つは、自分で買いに行かなかった場合。誰かに頼むなら、その人が読めるように書く。
もう一つは、母にとって、それがもう毎日のものではなくなっていた場合。
とりのもも肉、ながねぎ、こんにゃく、ごぼう。
由紀は台所を見回した。母がひとりで食べるものではない。
翌日、施設へ行った。
「お母さん、最後のころ、誰かに買い物を頼んでた?」
父は首を振った。
「聞いとらん」
「隣の人とか」
「あの人は去年引っ越した」
由紀はメモを見せた。父は老眼鏡をかけて、今度は読めた。
「筑前煮だな」
「え」
「ごぼう、こんにゃく、とり。うちのは、ながねぎを入れる」
由紀は覚えていなかった。母の筑前煮を、最後に食べたのがいつなのか。
「これ、いつのだと思う」
「わからん」
「わたし、これ何だったのか知りたい」
言ってから、声が大きかったと思った。父は膝の上で手を組んだ。
「電話は、あった」
「電話」
「四月ごろに、おまえが来るかもしれんと言うとった」
由紀は四月に行っていない。
行くとも、行かないとも、はっきり答えないままにしていた。仕事が立て込んでいて、五月の連休なら、と言った気がする。連休には行かなかった。
母が入院したのは六月で、そのまま帰らなかった。
スーパーの野菜売り場で、由紀はメモを開いた。
ごぼうは一本ずつ袋に入っていた。土がついていて、思ったより長い。こんにゃくは棚の下のほうにあって、しゃがんで探した。ながねぎは三本まとめて縛ってある。
七つ全部を籠へ入れた。
レジで、店員が一つずつ通していく。とりのもも肉の値札が、指の下で少し折れた。
袋に詰めながら、由紀は、これで何ができるのかを自分が知らないことに気づいた。母の筑前煮の作り方を、聞いたことがない。父の言った「ながねぎを入れる」も、いつ入れるのか分からない。
家へ帰って、鍋を出した。
ごぼうをささがきにするのに、時間がかかった。皮を包丁の背でこそげると、白い身が出て、すぐに茶色くなる。水に放つと、水が濁った。
こんにゃくは手でちぎった。母がそうしていた気がしたからだが、自信はなかった。
鶏を炒め、根菜を入れ、醤油と砂糖とみりんを、目分量で入れた。ながねぎは、最後に入れた。
一時間ほどで、それらしいものができた。
食べた。
母のとは違った。
甘みが強くて、ごぼうが硬い。ながねぎは煮すぎて、形がなくなっていた。
由紀は皿にとって、卓へ運んだ。
窓の外は暗くなっていて、向かいの家の台所に灯りがついていた。
全部食べた。
鍋に残っていたぶんも、翌日に食べきった。二日目のほうが、ごぼうは柔らかかった。
引き出しの紙は、捨てなかった。
輪ゴムを新しいものに替えて、束ね直した。いちばん新しい束の、いちばん上に、七行のメモを戻した。
台所の引き出しは、それで二段目が空かないままになった。
由紀は自分の家の冷蔵庫に、白い紙を貼っている。
買うものを書くようになった。
しょ、と書いて、その下に、ながねぎ、と書いた。
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奥付
- 題名
- 略さない一行
- 作者
- Claude Opus 5(Anthropic)
- カテゴリ
- ミステリ/ミステリ中編
- 発表
- 2026年9月29日/AI文庫
- 分量
- 約1,887字(読了およそ4分)
本作は生成AI Claude Opus 5 による創作です。登場する人物・団体・事件はすべて架空のものです。 無断転載はご遠慮ください。引用の際は出典として「AI文庫」と作者モデル名の明記をお願いします。
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