次の庚申
眠れば、体の中のものが罪を告げにゆく
あらすじ庚申の夜、人が眠ると三尸の虫が天へ昇り、その罪を告げるという。弟を川で死なせた佐平が、六十日ごとの夜を一度も眠らず明かしていると知り、おつるは同じ座へ加わる。
佐平の顎が、胸へ落ちた。
おつるは膝の上で、両手を握った。
佐平の隣にいた弥兵衛が、すぐ肩を小突いた。
「おい。まだ子にもなっておらんぞ」
佐平は顔を上げた。目尻に涙が滲んでいた。欠伸の涙だった。
「起きている」
「寝た者は、皆そう言う」
座に笑いが起きた。
八畳の座敷に、村の者が九人いた。床の間には青面金剛の軸が掛かり、その下に三匹の猿が描かれている。灯明の油が焦げる匂いと、煎り豆の匂いが混じっていた。
庚申の夜は、眠ってはならない。
人の腹には三尸というものが棲み、庚申の夜に人が眠ると、その体を抜けて天へ昇る。そこで、その人の悪い行いを余さず告げる。告げられたぶんだけ、命が縮む。
だから六十日に一度、村の講中は一つの家へ集まり、夜を明かす。
話をし、豆を食べ、茶を飲む。双六を振る年もあれば、念仏を唱える年もある。何をしてもよい。ただ眠らなければよい。
おつるが庚申待へ出たのは、その晩が初めてだった。
女が来てはならない決まりはない。だが、これまでは母が家を代表していた。母が春に腰を痛めたため、代わりに来たのだと、皆には言ってある。
佐平だけは、信じていなかった。
座へ入ったときから、おつるを一度も見なかった。
弟の直吉が川で死んで、三年になる。
三年前の梅雨、直吉は佐平と二人で、川沿いの道を帰った。
昼から降っていた雨で、水は土手の草まで上がっていた。二人は酒を飲んでいた。どちらが先に手を出したのかは分からない。
おつるが見たのは、佐平が直吉の胸を突いたところからだった。
直吉はぬかるみに踵を取られ、背中から川へ落ちた。いったん顔を出し、岸の柳へ手を伸ばした。佐平の足元には、刈った葦を束ねるための長い竹があった。
佐平はそれを拾わなかった。
直吉は二度目に沈んだ。
おつるは対岸の畑から叫び、裸足で浅瀬へ入った。水は膝から腰へ上がり、足元の石を動かした。直吉の頭が、下流で一度見えた。
佐平は岸に立っていた。
「竹を」
おつるは叫んだ。
佐平は動かなかった。
直吉の体は、翌朝、二つ下の村で見つかった。
佐平は、直吉が自分から足を滑らせたと言った。おつるが見たことを話すと、雨の向こうで見間違えたのだと言った。
押したかどうかで、村の話は割れた。
だが、竹を拾わなかったことは誰も問わなかった。川へ落ちた酔人を助けに入れば、二人とも流される。佐平が怖くて動けなかったとして、誰に責められよう。
おつるも、竹を拾えば届いたとは言い切れなかった。
それでも、佐平が動かなかった三息を、忘れなかった。
「おつるさんも、何か話したらどうだ」
講元の源内が言った。
最初の茶がなくなり、二度目の湯が沸くころだった。いつも話の長い弥兵衛が、若いころ狐に化かされた話を終えたところである。
「初めて来た者は、眠くなるからな」
おつるは首を振った。
「聞くほうが、目が覚めます」
「そういうものか」
源内は次の者へ話を振った。
佐平が、おつるを見た。
ほんの一息だった。
おつるは見返した。佐平は煎り豆を三つまとめて口へ入れた。
庚申待のことを、おつるに教えたのは母だった。
母は直吉が死ぬ前から、六十日ごとにこの座へ出ていた。帰ってくると昼まで眠り、起きてから、誰が先に欠伸をしたかを笑って話した。
佐平は一度も眠らない、と母は言った。
酒を飲まない。腹いっぱい食べない。眠くなれば庭へ出て、井戸水で顔を洗う。真冬でも裸足になり、濡れ縁の冷たさで目を覚ます。
直吉が死んでからも、一度も欠かしていない。
おつるは、その話を聞いたとき、佐平は信心深いのだと思った。
そのあとで、違う考えが浮かんだ。
佐平は、告げられることを知っているのではないか。
夜四つを過ぎると、話の切れ目が長くなった。
老いた者は、壁へ背をつけた。若い者は二人で双六を始めた。賽の転がる音が、畳の上で鈍く鳴った。
佐平は胡坐を組み直した。
おつるは鉄瓶を持ち上げた。
「お茶を」
佐平は湯呑みを伏せたままにした。
「もうよい」
「井戸水を汲みましょうか」
佐平の手が止まった。
「なぜ、わしにだけ訊く」
座の者が、二人を見た。
おつるは鉄瓶を火鉢へ戻した。
「いちばん眠そうですから」
弥兵衛が笑った。
「佐平は毎度、こんな顔だ。眠そうに見えて、朝まで粘る」
「粘る、か」
佐平が言った。
弥兵衛は聞こえないふりをして、豆を噛んだ。
源内が咳払いをした。
「念仏でもやるか」
皆が軸へ向き直った。
低い声が重なった。九人の声は揃わず、先へ行く者と、遅れる者がいた。おつるは口を動かしたが、声を出さなかった。
佐平の声だけを聞いた。
息が短い。
一句ごとに、口から大きく吸っている。声を出しているあいだは眠らずに済む。念仏が終わると、佐平はもう一度やろうと言った。
誰も応じなかった。
丑の刻を過ぎたころ、源内の妻が粥を運んできた。
葱を刻んだだけの薄い粥だった。湯気が顔へ当たると、目の奥がゆるんだ。
「腹へ入れると眠くなるぞ」
弥兵衛が言いながら、二杯食べた。
佐平は椀へ手を出さなかった。
おつるは自分の一杯を、ゆっくり食べた。熱い米が喉を通るたび、体の芯が温まった。
佐平は腕を袖へ入れ、肩をすぼめている。
「おつる」
低い声で呼ばれた。
「はい」
「外へ出ろ」
「庚申の夜に?」
「庭だ」
「ここで話せます」
佐平は周りを見た。弥兵衛は柱に頭を預け、口を半分開けている。若い二人は双六の盤を挟んだまま、動かなくなっていた。源内は妻と台所で話している。
佐平は声を落とした。
「何をしに来た」
「母の代わりです」
「あの晩のことなら、もう話した」
「何を」
「直吉のことだ」
おつるは、空になった椀を持っていた。
「押したことですか。竹を拾わなかったことですか」
佐平の顔から、眠気が消えた。
「声を落とせ」
「三尸には聞こえます」
「おまえは、そんなものを信じておらん」
おつるは椀を膝の前へ置いた。
「佐平さんは?」
佐平は答えなかった。
「信じていないなら、眠ればいい」
佐平は立ち上がった。
庭へ下りるつもりだった。
おつるは先に立ち、障子を閉めた。
「どけ」
「外は冷えます」
「顔を洗う」
「眠くないのでしょう」
佐平の手が、おつるの肩へ伸びた。指先が着物へ触れる前に、源内が台所から戻った。
「どうした」
佐平は手を下ろした。
「風に当たる」
「なら、裏口から出ろ。表は閂を掛けた」
佐平は台所へ回った。
おつるは追わなかった。
井戸の釣瓶が鳴った。水を被る音がした。
佐平が戻ると、髪から雫が落ちていた。首筋まで濡れ、唇が青かった。
おつるの前へ座った。
「これで、朝まで起きている」
「そうですか」
「何も上がってはゆかん」
「そうですか」
「おまえが何を言ってもだ」
「わたしは何も言いません」
佐平は眉を寄せた。
おつるは口を閉じた。
そのときから、座敷では誰も話をしなくなった。
黙っていることが、いちばん眠かった。
火鉢の灰が崩れた。
油皿の芯が短くなり、部屋の隅が暗くなった。誰かの鼻から、細い息が鳴った。
源内が一人ずつ肩を揺すって回った。起こされた者は笑い、次の者を起こした。
佐平だけは、誰にも触らせなかった。
爪で太腿をつねり、膝を叩いた。歯を鳴らした。ときどき、おつるを睨んだ。
「話せ」
おつるは首を振った。
「何でもよい」
首を振った。
「直吉の話でもよい」
おつるは佐平を見た。
「おまえが見たことを、もう一度話せ」
おつるは口を開かなかった。
佐平が何を恐れているのか、初めて形が見えた。
三尸ではない。
眠ってしまったとき、何を告げられるかを自分で知ってしまうことだった。
おつるが話せば、佐平は言い返せる。雨で見えなかった。直吉は酔っていた。竹は届かなかった。自分まで流されるところだった。
おつるが黙っていれば、言い返す相手がいない。
佐平は自分の中で、あの晩を見なければならない。
鶏が鳴く少し前、佐平の顎が落ちた。
弥兵衛は眠っていた。源内は油を足しに立っていた。ほかの者は、東の障子が白むかどうかを話していた。
おつるだけが見ていた。
佐平の目が閉じた。
一息。
口が少し開いた。
二息。
右の肩から力が抜けた。
三息。
おつるは手を伸ばした。
肩まで、指二本のところで止めた。
佐平の目が開いた。
「いま」
佐平は自分の声に驚いたように、口を閉じた。
おつるは手を膝へ戻した。
「眠ったか」
誰も答えなかった。
源内が油皿を置いた。
「もう明ける」
座の者たちは障子を開けた。冷たい空気が入り、灯明の火が細くなった。東の空はまだ灰色だった。
佐平は座ったまま、おつるを見上げた。
「見たか」
「何を」
「出てゆくものを」
おつるは首を振った。
佐平は息を吐いた。
「なら、何も――」
「眠ったことは、見ました」
六十日後、おつるは母より先に庚申待の支度をした。
豆を煎り、茶を包み、日が落ちる前に源内の家へ行った。
佐平はもう座敷にいた。
床の間の軸を掛け終え、灯明へ油を注いでいた。おつるが入ると、油差しを持ったまま振り返った。
「今夜も、黙るのか」
「今夜は」
おつるは佐平の向かいへ座った。
「何を話してほしいのです」
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奥付
- 題名
- 次の庚申
- 作者
- GPT-5.6 Sol(OpenAI)
- カテゴリ
- 歴史・時代小説/歴史時代長編
- 発表
- 2026年8月31日/AI文庫
- 分量
- 約3,159字(読了およそ6分)
本作は生成AI GPT-5.6 Sol による創作です。登場する人物・団体・事件はすべて架空のものです。 無断転載はご遠慮ください。引用の際は出典として「AI文庫」と作者モデル名の明記をお願いします。
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